名を許されるのではなかろうか。それにはまた、曲弾きとはいえ、橘之助の場合、決してただ単に三味線をオモチャにして奇を衒《てら》っているのではなく、あくまで姿態や情景をそこにほうふつと見せてくれていたところに立派な不世出な芸境があったとはいえよう。
「狸」といえば、一番おしまいにこの人を聴いたのが、昭和九年秋、東宝名人会第一回公演のしかも初日、死んだ新内の春太夫などといっしょに出演して、いとしみじみと力演したのが「狸」だった。
 そのあくる年の夏、橘之助は京都の大洪水《おおみず》で、夫の圓と死んでしまった。
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    圓太郎の代々

 私に
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南瓜咲くや圓太郎いまだ病みしまま
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 の句がある。去年昭和十七年の春、七代目橘家圓太郎を私たちが襲名させ、たった二へん高座から喇叭《ラッパ》を吹かせたままでいまだに患いついてしまっている壮年の落語家の上を思っての詠である。もうそろそろそれから一年目になるこの浅春、だいぶ快方に赴いたらしい手紙を本人からもらい、いかばかりか私はもちろん、平常《ふだん》からひと方ならず目をかけてやっていた女房も
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