などと大真面目で語っていたことを思う時、別な橘之助の一面をそこに見せられた気がしてならない。ところで橘之助はこの左門町へ移る前は、やはり薬研堀《やげんぼり》の路地の清元《きよもと》の女師匠の二階を借りて住んでいた。そうしてそこの二階のある日の景色もまたそっくりそのまま、私は震災の春、世に問うた「影絵は踊る」という未熟な長篇小説の中へ写し出している。
 このようにして考えてみると立花家橘之助と私との縁《えにし》の絲はなかなかに深く、そういえばその「影絵は踊る」の女主人公も橘之助門下の某女だったし、橘之助と艶名を謳《うた》われた三遊亭圓馬(その頃のむらく[#「むらく」に傍点])が私の師父にあたっているし、さらに私と多年の交わりがあり、それゆえに昨春[#「昨春」は底本では「咋春」]、七世橘家圓太郎を襲名させた新鋭はたまたま橘之助最後の夫たる先代圓の門人。すなわち今なお私の、橘之助夫妻のため、毎朝念仏唱名している所以《ゆえん》である。
 さて、そうした縁あればこそだろうか、この頃になってさるところから私は、橘之助の絵葉書三葉をもらった。それは彼女自身の蔵版とみえ、袋に「うきよぶし家元、石田美代
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