ばむ。橘之助、何十年三味線を弾いていて、こんな例は一度もない。――昔、何とかいう三味線の名人が品川で遊んで(原武太夫のことだろう、何とかいう三味線の名人とその時の橘之助は言ったっけ)、絃の音色で大海嘯《だいかいしょう》を予覚したという話さえ思い出して、遠からずこれは何か異変があるのじゃないかとさえ、心ふるえた。
そうしていやいやながら顔だけ出そうと、ほかの席はすっかりぬいて、トリの恵智十へ入るとたちまち、こんどは、スッと胸が晴れた。そういっても、いつもより、かえって、ほのぼのと、すがすがと、弾いた、歌った、いつもの五倍もはしゃぎにはしゃいで、さて、そのあくる日、湯島の家で昼風呂につかっていると、
『号外ーッ』というけたたましい声々。
はて――と小首をかしげる間もなくその号外は、
『伊藤公ハルピンにて暗殺さる』
さてこそなゆうべ[#「ゆうべ」に傍点]の鳴らざりし三味線と初めて橘之助、心にいたましく肯いたとは言うのだったが……。
これを聞き終えた一瞬、妙にあたしは橘之助の、あの大狸のような顔がもの凄《すご》いありったけに思えて、ぞっと水でも浴びた心地に、四谷の通りへ駆けて出ると、秋
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