。それにしてももう今では「東京の人でない」どころか、この世の人ではなくなってしまった。
「立花家橘之助は、今も六十近くを、あの絶妙な浮世ぶしの撥《ばち》さばきに、薬指の指輪をさびしく、かがやかせているであろうか※[#感嘆符疑問符、1−8−78] その頃(震災の二年ほど前)橘之助は、小綺麗な女中をつかって四谷の左門町に二階を借りていた。
あたしはその鴉《からす》鳴く四谷の秋たそがれ、橘之助自身からそのかみの伊藤博文と彼女にまつわる、あやしい挿話を聞かせてもらったことがある。
橘之助は、博文公と、かなり、前から深い知り合いだったものらしい。で、公がハルピンへゆかれる時も、その送別の席上、
『こんど、俺が帰ってきたら、有楽座のようなボードビルを建ててやるから、自重して、そこへ年二回くらい出るようにしろ』
と、橘之助に言った。
『御前、それはほんとうですか』
夢かとよろこんで橘之助は、公をハルピンへ発たせたが、それから数カ月、ある夜、人形町の末広がふりだしで橘之助、高座へ上がると三味線が鳴らない。べんとも、つんとも、まるで鳴らない。とうとうそのまま高座を下りたが、悪寒はする、からだは汗
前へ
次へ
全52ページ中11ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
正岡 容 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング