生の噺にたいする一家言はなかなか鋭角的で、半歩も他に譲らないきびしいものをもっている。権門に降《くだ》らず、ひたすらほんとうの噺家らしい市井風流にのみ活きぬきたいあの心構えも、文楽とともにいい。
 それにはなかなかの勉強家で、よくうちの本箱からいろいろの本を漁《あさ》っては持っていく。そのくせその本から得た知識がへんにインテリがかったものとなって噺のニュアンスを壊すなんてこともなく、きわめて彼の場合にはいい肥料《こやし》となっているらしい。便乗落語しかやれない時がきたらただちに噺家を廃業してしまっていいとつねに語っているこの人の心構えの上に私は、岡本綺堂先生描く「相馬の金さん」を感じずにはいられない。同じく「権十郎の芝居」の、討死しても懐中から芝居の番付を放さなかった芝居好きの江戸侍藤崎を思わずにはいられない。後者はつとに本人も読んで知っていて私たちは絶対あの心構えでありたいとも、ある時の酒間では私に語ったことだった。
 この人の今後の年一年は特異な話術世界への開拓があり、進軍があり、結果はいよいよ芸能界の好収穫となるだろう。現に九月には私の志ん生、文楽両君と主宰している寄席文化向上会で鯉丈《りじょう》の『和合人』発表の企画がある。くれぐれも加餐《かさん》を祈ってやまない。
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    橘之助懐古

「この頃になってしみじみ橘之助《きつのすけ》を思い返す。もう東京では人気もあるまいが、しかしあれだけの芸人はいない。――ことに、阿蘭陀《オランダ》甚句の得わかぬ文句、テリガラフや築地の居留地や川蒸気などそんな時代の大津絵や。
 それから子供がいやいや[#「いやいや」に傍点]三味線を引っかかえてお稽古をする、あれなんぞは、どう考えても至上である。――仄かな瓦斯《ガス》灯からぬけだしてきたような、あの明治一代の女芸人。だが惜しいとまこと[#「まこと」に傍点]思う頃にはこれまた東京の人でない」
 かつて私にこの小品があり、昨秋[#「昨秋」は底本では「咋秋」]、上梓した『随筆、寄席風俗』の中へ収めた。でも、これで見るともうその頃橘之助は先代|圓《まどか》といっしょになり、名古屋へ去っていたのだろうか。否、私の記憶によるとどうもそうではなく、この時の橘之助はまだまだ圓とはいっしょにならず、どこか別の地方へ稽古かたがた一人で行ってしまっていたのだという気がしてならない。それにしてももう今では「東京の人でない」どころか、この世の人ではなくなってしまった。
「立花家橘之助は、今も六十近くを、あの絶妙な浮世ぶしの撥《ばち》さばきに、薬指の指輪をさびしく、かがやかせているであろうか※[#感嘆符疑問符、1−8−78] その頃(震災の二年ほど前)橘之助は、小綺麗な女中をつかって四谷の左門町に二階を借りていた。
 あたしはその鴉《からす》鳴く四谷の秋たそがれ、橘之助自身からそのかみの伊藤博文と彼女にまつわる、あやしい挿話を聞かせてもらったことがある。
 橘之助は、博文公と、かなり、前から深い知り合いだったものらしい。で、公がハルピンへゆかれる時も、その送別の席上、
『こんど、俺が帰ってきたら、有楽座のようなボードビルを建ててやるから、自重して、そこへ年二回くらい出るようにしろ』
 と、橘之助に言った。
『御前、それはほんとうですか』
 夢かとよろこんで橘之助は、公をハルピンへ発たせたが、それから数カ月、ある夜、人形町の末広がふりだしで橘之助、高座へ上がると三味線が鳴らない。べんとも、つんとも、まるで鳴らない。とうとうそのまま高座を下りたが、悪寒はする、からだは汗ばむ。橘之助、何十年三味線を弾いていて、こんな例は一度もない。――昔、何とかいう三味線の名人が品川で遊んで(原武太夫のことだろう、何とかいう三味線の名人とその時の橘之助は言ったっけ)、絃の音色で大海嘯《だいかいしょう》を予覚したという話さえ思い出して、遠からずこれは何か異変があるのじゃないかとさえ、心ふるえた。
 そうしていやいやながら顔だけ出そうと、ほかの席はすっかりぬいて、トリの恵智十へ入るとたちまち、こんどは、スッと胸が晴れた。そういっても、いつもより、かえって、ほのぼのと、すがすがと、弾いた、歌った、いつもの五倍もはしゃぎにはしゃいで、さて、そのあくる日、湯島の家で昼風呂につかっていると、
『号外ーッ』というけたたましい声々。
 はて――と小首をかしげる間もなくその号外は、
『伊藤公ハルピンにて暗殺さる』
 さてこそなゆうべ[#「ゆうべ」に傍点]の鳴らざりし三味線と初めて橘之助、心にいたましく肯いたとは言うのだったが……。
 これを聞き終えた一瞬、妙にあたしは橘之助の、あの大狸のような顔がもの凄《すご》いありったけに思えて、ぞっと水でも浴びた心地に、四谷の通りへ駆けて出ると、秋
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