随筆 寄席囃子
正岡容

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)噺家《はなしか》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)融通|無擬《むげ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#感嘆符疑問符、1−8−78]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)泊まり/\
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   寄席囃子



    当代志ん生の味

 当代の噺家《はなしか》の中では、私は文楽と志ん生とを躊躇《ちゅうちょ》なく最高位におきたい。文楽は菊五郎、志ん生は吉右衛門、まさしくそういえると思う。ただし、芸質の融通|無礙《むげ》なところでは志ん生の方が菊五郎らしく、双方の芸を色彩にたとえていえば文楽の方がハッキリと明色で六代目らしい。そのくせ一字一劃を疎《おろそ》かにしない文楽の小心さ几帳面さは吉右衛門を思わせ、志ん生のいい気な図太さは六代目に似かよっているのだからなかなかおもしろい。
 最近|鴨下晃湖《かもしたこうこ》画伯も「落語三人男」と題してほぼ私と同様の意見で文楽、志ん生、可楽について論評されたが、その中の志ん生に関するくだりだけを引用してみよう。
 曰く、
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志ん生の飄々として「テニヲハ」の合わぬ話し振りの中に奇想天外な警句と愉快な諧謔の連続にいつしか聴き手を不可思議な八ッあん熊さんの世界に引き込んでゆく可笑《おか》しさ、とめどもないような中に本格の修業を失わないところ、彼独特な「マクラ」の奇抜な面白さ、また現在の彼の地位も不当ではない。
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 ほんとうに志ん生は早くからこの社会へ身を投じていながら、若い時分をずぼらにでたらめに暮らしすぎたため転落し、そのため一時はずいぶんひどい貧乏暮らしをしていた。本所|業平《なりひら》の陋巷《ろうこう》、なめくじばかりやたらにいる茅屋《ぼうおく》にいて、その大きい大きいなめくじはなんと塩をかけると溶けるどころかピョイと首を振ってその塩を振り落としてしまうというのである。志ん生(その頃は甚語楼といったり、隅田川馬石といったり、また古今亭志ん馬になったりしていた)のお神さんに至ってはこのなめくじに踵《かかと》まで食いつかれた。
「あんな腹の立つものはありませんね、ナイフで斬ったって血は出やがらねえし[#「血は出やがらねえし」に傍点]」
 よくその時分、志ん生はこう言っていたが、「血はでやがらねえし」は巧いではないか。今日、彼のギャグのおもしろさがもうこの時に立派な萌芽を示していると思う。しかしその骨の髄まで滲《し》み透るような貧困のどん底生活は、いろいろと彼にめげない逞《たくま》しさを与えた。持ち味のおかしさにも、もっともっと本物の底力ある磨きをかけてくれた。恐らくこの「生活」なくして今日の古今亭志ん生は得られなかったろう。でも、どうしてその時分この生活こそのち[#「のち」に傍点]の最大幸福の原動力なりと本人はもちろん、我々にしても知り得たろう。すべては神のみぞしろしめす、である。
 何より私はそうした彼の数奇な半生に、私自身の姿を見出さずにはいられないのだ。私自身もまた年少にして文筆の生活に入り、時流に耐える底力なく自棄《やけ》の生活を送っているうちにすッてんころりんと落伍してしまい、ひどいひどい貧乏暮らしのありッたけをしてから、やっとこの頃多少でも自分の好きなものだけを書いて世間に問うことができてきたのである。世の中へ出たことは志ん生の方が私より三、四年早かったけれども、志ん馬から馬生と彼の売り出し時代、ほんとうに私は他人事ならずその出世を喜び深く眺めていたことだった。そうして彼も近来恐らく同様の感慨を、私の上に抱いているのではないのだろうか。すなわち何か身近なものを私の上に見出しているのではないだろうか。新作嫌いのこの男が、最近「寄席」「圓朝」と二つも私の長篇小説を自由に脚色し、構成して、高座《いた》にかけ、内的にも奏効していることを思えば――。
「寄席」は昭和十七年十一月、十二月の二回にわたる発表(神田花月、昼席)だったが、あの噺の中で志ん生はお艶《えん》ちゃんの仄《ほの》白い顔をチラッと美しく描いてくれた。熱海でザブリ温泉へ飛び込んで「芸」の修業の難しさを語る時の今松の独白には、ジーンとこちらの胸まで熱くさせるものがあった。横浜でペスト劇を訪ねて失望落胆するくだりに至っては、ひそかに作者の期待していたのと寸分違わぬ馬鹿馬鹿しさがそこここに満ち溢れて、すこぶる私は満足だった。
「……私は少し今松に似ているのかもしれない」
 その時地のところでこう言って志ん生は笑わせたけれど、まさしくそれ
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