はそうだろう、私が彼の過ぎ来し半生の上に自分の姿を見出しているよう彼もまた今松という私の変形のあの主人公の上に若き日の自分の姿を見出しているのにちがいない。それには原作にはない先代の志ん生が空気草履を履いたため、盲小せんから江戸っ子の面汚しだと言って絶交され、岡村柿紅氏を頼んで大真面目で詫びに行く挿話もよかった。同じく昔、新石町の立花が貞山ばかりひいきにするので、その頃の若武者小勝が、
「貞山(瓢箪)ばかりが売り物(浮き物)か、小勝(あたし)もそろそろ(この頃)売れて(浮いて)きた」
と地口《じぐ》る挿話もおもしろかった。さらにまた名人春錦亭柳桜が穴のあいた釈場の高座へ飛び入りで客席から出演し、世にも水際立った人情噺を一席|演《や》ったので、楽屋で聴いていて感に堪えた一前座はにわかに講釈がいや[#「いや」に傍点]になってピシーリと張扇を折り、柳桜門下にはせ参じた。だのにこの男[#「だのにこの男」に傍点]、一向に売れなかった[#「一向に売れなかった」に傍点]という挿話に至っては、層一層とおもしろかった(この男が久保田万太郎氏の『末枯』の扇朝、すなわち春風亭梅朝爺さんの前身であるとのち[#「のち」に傍点]に志ん生は私に語った)。ようするに『寄席』という私の小説を主に、これら明治大正の噺家世界の愉しいエピソードを従に、まさしく志ん生の話術は時として講談であり時として落語であり時として人情噺であり、同時にそれらのいずれでもないひとつの新世界を開拓してみせてくれたのだった。骨折り甲斐のあった仕事だったといっていい。
「御難をして熱海の贔屓《ひいき》を頼っていく一節などいかにも実感があって志ん生の自叙伝を聴く思いがあった」
と安藤鶴夫君はその日の批評に書かれたが、ほんとうにそのとおりだった。
「もはや一流人である同君がこうした野心作品を示し、しかも相当の効果をあげたことに脱帽したい」
私自身も、同じ頃あるところへこう書いた。
今夏彼が発表した「圓朝」についてはそのうちあらためて書くつもりなので、ここでは言わない。ただ原作にないいい物語が時々用意されていて、それがそれぞれ私をして書きたい欲望を起こさしめるに足るほどの話だったことなど、特筆しておいてよかろうと思う。
鴨下画伯の言われる「奇想天外」の味は、「町内の若い衆」にある、「寝床」にある、「強情灸」にある、「らくだ」にある、「火焔太鼓」にある、「佐平次」「白銅」もわけもなくおかしい。「寝床」「らくだ」の彼の独自なギャグや扱い方についてはすでに他に書いたが、「町内の若い衆」の下層街のおかみさんの活写とその警句百出に至っては、ちょっと他に類をみない。あのようなささいな噺を、あのようなおかしい愉しいものにした功績は、永らくこの道に記録されてよかろう。
「強情灸」で灸の熱さを説く男が、
「熱いのなんのってこの間なんか、あまり熱いンでバーッと飛び上がって天井を蹴破ってそのままどこかへ行っちゃった男がある」
なども、彼のギャグのすばらしさの最たるものだろう。だって考えてもみてくれたまえ、化け猫じゃあるまいし、そんな君、天井を蹴破るなんて……。
もしそれ「お直し」に至っては最後近くあの特異な生活の夫婦の愛情に高潮するあたり、劣等感は微塵も起こらず、まさしくモーパッサンあたりの名小説を読むの思いがある。これは不朽の逸品といえよう。大切に綿に包《くる》んでとっておきたい気さえ、私はした。「今戸の狐」ではしがない落語家の生活も千住《こつ》のおいらんのなれの果ての姿も今戸八幡辺りの寒々とした景色とともに、よく志ん生は描き出してみせてくれる。
先代小圓朝門下で圓喬《えんきょう》に傾倒し、先代志ん生の門を叩いた彼は、早く江戸前の噺の修業はいっぱしに終えていた、圓朝系の人情噺もひととおりは身につけていた。ひと頃先代蘆洲門下に走って張扇を手にしていた時代のあったことも、続きものの読める今日の彼に役立っていないとはいえない。
ただ、いかにも昔は陰気でひねこびていたのが(私は馬きん時代のこの人の高座をハッキリと覚えているが)、事変三、四年前、初めて三語楼という陽花植物を己れの芸の花園へ移し植えるに及んで、めきめきとこの人の本然の持ち味は開花した。さらに先代圓右の軽さが巧い具合に流れ込み、溶けて入ったことによって、ついに志ん生芸術の開花は結実にまで躍進した。
『寄席』や『圓朝』を一時間も二時間も読んで、時に笑わせ、時にホロリと、自在な腕を揮《ふる》えるのも、思えばこうした永い年月の粒々辛苦の芸術行路のゆえである。けだし自然であるといえよう。
文楽と志ん生とが当代の二大高峰であると冒頭に言ったが、幸福にも私は全落語界きってこの両者とは特別の親近の交わりがある。喜びとしないわけにはゆかない。
志ん
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