の夕の小寒い灯が、ここでも、何がなし、あたしの瞳にいぶかしく、映ったことを記憶《おぼ》えている」
 さらにそれから三、四年してまた私は、あるところへこのように橘之助について、書いたこともある。
 そうしてまだまだこのほかにも橘之助自身から数奇な自伝の一節を、いろいろさまざまに私は聞かされている。たとえば彰義隊の戦《いくさ》の時の話や、神戸へ行く蒸気船のなかで水銀を呑まされた話や、同じくその船の中で幼少から男装していたため異人の少女にひとかたならず恋された話や、それらはすべて三遊派の宗家藤浦富太郎氏の参与していられた雑誌「鈴の音」へ、立花家橘之助その人の名で、年少の日の私が稚拙の筆を駆り立てて多分一、二回連載で書かせてもらっている。元よりその雑誌、もう私自身も持っているよしもないのであるが――。
 それにしても橘之助、あれほどの一種の女傑でありながら色ざんげらしいことは毛ほども喋ろうとしなかった。まだこっちがてんで子供だったせい[#「せい」に傍点]もあろうが、前掲した博文公との話でもかつて石谷華堤さんに話したら公との情話らしく扱われて[#「公との情話らしく扱われて」に傍点]まことに困ったなどと大真面目で語っていたことを思う時、別な橘之助の一面をそこに見せられた気がしてならない。ところで橘之助はこの左門町へ移る前は、やはり薬研堀《やげんぼり》の路地の清元《きよもと》の女師匠の二階を借りて住んでいた。そうしてそこの二階のある日の景色もまたそっくりそのまま、私は震災の春、世に問うた「影絵は踊る」という未熟な長篇小説の中へ写し出している。
 このようにして考えてみると立花家橘之助と私との縁《えにし》の絲はなかなかに深く、そういえばその「影絵は踊る」の女主人公も橘之助門下の某女だったし、橘之助と艶名を謳《うた》われた三遊亭圓馬(その頃のむらく[#「むらく」に傍点])が私の師父にあたっているし、さらに私と多年の交わりがあり、それゆえに昨春[#「昨春」は底本では「咋春」]、七世橘家圓太郎を襲名させた新鋭はたまたま橘之助最後の夫たる先代圓の門人。すなわち今なお私の、橘之助夫妻のため、毎朝念仏唱名している所以《ゆえん》である。
 さて、そうした縁あればこそだろうか、この頃になってさるところから私は、橘之助の絵葉書三葉をもらった。それは彼女自身の蔵版とみえ、袋に「うきよぶし家元、石田美代事 初代 橘之助」と紫色のスタンプインクが押してあり、内容な年少断髪の高座姿(圓朝賛、圓橘画)とやや老けている時代と、そうして晩年に近いあの姿とである。なつかしい東京の忘れ形見として、いつまでも私は大切にとっておきたいと思っている。
 たった一枚、わが愛蔵の音盤はとっちりとん[#「とっちりとん」に傍点]の「あひるの卵」。何よりパチンと卵の殻の破れるその撥《ばち》さばきが至宝である。
 同じとっちりんとん[#「とっちりんとん」に傍点]で朝顔の琴の音はあまりにも如実に、三番叟《さんばそう》への鈴音は迫真のなかにさんさんとふりそそぐ春の日、またその日の中に光りかがやく金鈴の色を手にとるように見せてくれた。
 ※[#歌記号、1−3−28]水戸様は丸に水……という大津絵の「水づくし」も古風で軽妙至極のものだったし、十八番の「狸」には芳藤描く江戸|手遊絵《おもちゃえ》の夢があった。
 自ら浮世節家元を唱えていたが、そもそも浮世節とは市井巷間《しせいこうかん》の時花《はやり》唄の中に長唄清元、常磐津、新内、時に説教節、源氏節までをアンコに採り入れ、しかもそれらがことごとく本筋に聴かし得て、初めてその名を許されるのではなかろうか。それにはまた、曲弾きとはいえ、橘之助の場合、決してただ単に三味線をオモチャにして奇を衒《てら》っているのではなく、あくまで姿態や情景をそこにほうふつと見せてくれていたところに立派な不世出な芸境があったとはいえよう。
「狸」といえば、一番おしまいにこの人を聴いたのが、昭和九年秋、東宝名人会第一回公演のしかも初日、死んだ新内の春太夫などといっしょに出演して、いとしみじみと力演したのが「狸」だった。
 そのあくる年の夏、橘之助は京都の大洪水《おおみず》で、夫の圓と死んでしまった。
[#改ページ]

    圓太郎の代々

 私に
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南瓜咲くや圓太郎いまだ病みしまま
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 の句がある。去年昭和十七年の春、七代目橘家圓太郎を私たちが襲名させ、たった二へん高座から喇叭《ラッパ》を吹かせたままでいまだに患いついてしまっている壮年の落語家の上を思っての詠である。もうそろそろそれから一年目になるこの浅春、だいぶ快方に赴いたらしい手紙を本人からもらい、いかばかりか私はもちろん、平常《ふだん》からひと方ならず目をかけてやっていた女房も
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