喜んだものであるが、いまだに八王子からやってこないところを見ると、まだほんとうには快《よ》くならないらしい。早く治してやりたいものである。病んでも片手にしっかりと真鍮《しんちゅう》の喇叭を握りしめたままでいるという話を聞くにつけても(この校正中、本人、まったく回復、元気来宅した)。
私の手もとに襲名の時調べた橘家圓太郎の代々があるから、詳しい一人一人の月旦はまた他日として、この際ほんのメモ代わりに書きつけておいてみよう。
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初代圓太郎――江戸湯島住。二世圓生門人音曲をよくす。圓朝の父。
二代圓太郎――圓朝門下、三世圓生。
三代圓太郎――大声の文楽門人金楽。のち圓朝門に入り、圓寿改め圓太郎。
四代圓太郎――圓朝門下、はじめ万朝。かの乗合馬車の御車の口真似して喇叭吹き鳴らし、俗に喇叭《ラッパ》の圓太郎。滑稽音曲噺の達人。
五代圓太郎――四世圓生門下の音曲師、早くより上方にあり、京阪にて終始せり。はじめ二代目圓三、のち先代圓馬門に投じ、小雀、伯馬、小圓太を経て、明治三十四年三月襲名。
六代圓太郎――よかちょろ[#「よかちょろ」に傍点]の遊三門下小遊三、公園より六代目を襲う、ひと頃は鳴らせる音曲師なり。
七代圓太郎――先代橘の圓《まどか》門下。百圓より七代目圓太郎たり。
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これを要するに二代三代は知らず、他はことごとく音曲師だったわけである。
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続寄席囃子
鼻の圓遊・木更津
昔の芸人には、ずいぶん愉しい心意気の人がいた。
中でもすててこをはやらせた鼻の圓遊は、
「俺は、まだ、いっぺんも駆け落ちをしたことがない。死ぬまでにいっぺんでいいから、駆け落ちの味を知っておきたいものだ」
と言って、晩年、とうとうさる[#「さる」に傍点]商売女を頼んで、木更津まで逃げてもらったそうである。
頼んで逃げてもらったのでは、まるで京伝の黄表紙にある「艶気蒲焼《うわきのかばやき》」の浮気屋艶次郎みたいなもので、
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※[#歌記号、1−3−28]こんなえにしが唐紙の
鴛鴦《おしどり》のつがいの楽しみに
泊まり/\の旅籠《はたご》屋で
ほんの旅寝の仮まくら
うれしい仲じゃないかいな
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と「落人」にあるような味な雰囲気なぞ滲み出そうわけもなくどこまでも艶次郎で、すなわち道行興鮫肌であったろうと想像されるが、本人はどうして、なかなかの御機嫌で、「これでやっと終生ののぞみがかなった」と言ってノメノメと帰って来たそうだから、世話はない。
いかにも、時世のよかった頃の芸人の横顔をまざまざと見せられる感じではないか。
お通夜の晩に、お経の代わりに二十五座の馬鹿囃子をやってくれと頼んで死んだのも、この圓遊だった。――その遺言はさっそくに実行されたと聞いているが当時の圓遊はたしか、浅草の三筋町に住んでいたはずだ。
今のように、落語家がお大名のお下邸みたいな邸宅を構えない時代だから、おそらく一世をときめいた圓遊の住居も、いかにも、旧東京らしい、下町らしい、慎みぶかい人情をもった小意気な世帯だったにちがいない。
そうした家から、夜をひと夜笑いさざめく声とともに(断っておくが、世に、落語家のお通夜ほどバカバカしく、おもしろいものはない。これだけは今日といえども変わっていない)、テケテン、テンドンと流れてきたろう馬鹿囃子の音色を考えると、明治の末年らしいしめやかな「東京の呼吸」をなつかしく感じないわけにはゆかない。
ところで、圓遊の逃げた先が上総《かずさ》の木更津だったとのことだが、かの切られ与三郎を待つまでもなく、江戸末年から明治へかけての木更津は、ひと頃の横浜ぐらいに、繁華な文明な、うれしい港であったにちがいない。
すでに「初天神」という落語の、職人夫婦の物語にも、
「俺とお前が木更津へ逃げた時分のことを考えりゃア……」
というセリフがあるし、先々代圓蔵が得意とした「派手彦」で白鼠の番頭さんが阪東なにがしという踊りのお師匠さんを病気になるほど思いつめ、とど夫婦になる。
この、美しいお師匠さんが、お祭りによばれてゆく先もやっぱりかの木更津である。
「義士伝」の倉橋伝助が、まだ長谷川金次郎といって飲む打つ買うの三道楽であった時分、江戸を食いつめて、落ちゆく先も御多分に洩れず、木更津だったと覚えている。
私は、今から二十年以上――といえば、まだ、十二、三の時であるが――いっぺん、行っただけであるが、夏は町はずれの蓮田へひらく紅白の花の美しさを今も身うちの涼しくなる風情に思い返すことができる。
「木更津甚句」という、明治中世のはやり唄には
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※[#歌記号、1−3−28]木更津曇るともお江戸は晴れろ
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