今の奴らは一人っきりでひと晩演るだけの芸がないのだというようなこともしかしながら言ったように覚えている。聴いていてへんに私はうれしくなった、恋ある身ゆえ、なにを聴いてもしかくうれしかったのかもしれない。
 続いてまず最初は音曲噺を、と、「箱根の関所」を一席、演った。ただ単に演ったというだけのもので、決して巧いものではなかった。むしろハツキリと拙かったといえる。でも、それもうれしかった、やはり恋ある身ゆえに、だったのだろう。
 それから雲節で「大正震災記」の浪花節を唸った。被服廠《ひふくしょう》のところでお婆さんがどうしたとかいう奇妙なくすぐり[#「くすぐり」に傍点]があったように覚えているが、もちろんこれも塩辛声で、てんで[#「てんで」に傍点]法返しのつかない代物だった。そのあとで今の音曲師は本筋の都々逸の歌えるやつがかいくれ[#「かいくれ」に傍点]いない、そもそも都々逸には芝派と江戸派の二つの歌い方があるのだ、今夜の俺はすなわちその芝派のほうを聞かせてやろうとさんざん能書いたのち、やおら[#「やおら」に傍点]歌い出した都々逸二つ三つ、しかもまたこれが思いきり拙かった。危うく私はふき出してしまうところでさえあった。でも、やっぱりそれもこれもただやみくもにうれしかった、同じく恋ある身ゆえに、だったのだろう。
 続いて場内を真っ暗に、辮髪《べんぱつ》の支那人姿となって現れ、その辮髪の先へ湯呑み茶碗の中へ蝋燭《ろうそく》を立てて灯を点したのを結びつけると、四丁目の合方おもしろく、縦横自在に振り回した。幻燈の花輪車《かりんしゃ》のよう辮髪の先の灯は、百千《ももち》に、千々《ちぢ》に、躍って、おどって、果てしなかった。まさにまさしくこれだけは逸品だった。二十人あまりのお客たちが言いあわせたように拍手をおくった。いよいよ私はうれしくなった、くどいようだが恋ある身ゆえに。
 でも、いつまで恋ある身ゆえにいつまで恋ある身ゆえにと喜んでばかりはいられないことが、たちまちそこへやってきた。はじめて浴びた満場(といっても二十人あまりだが)の拍手に気をよくした日本太郎はにっこりとすると、
「ではこれで仲入りとするが、あとは客席へ下りていって諸君の腕をへし[#「へし」に傍点]折り、たちまち元のごとくに直してごらんに入れる」
 こう言ってサッサと下りていってしまったのだった。いや、おどろいたね、これにはどうも。だって二十人あまりこの客ではいつこの私がポキンと腕を折られまいものでもない、さてその折られた腕が再び元どおりにならなかったとてそれこそとんだ「太鼓針」で、相手が日本太郎では喧嘩にもならない。かく思い、かく考えてみてほんとうにその時私は心の底の底のまた底まで青くなって、そこそこに柳水亭の階子段を駆け下りて下足をもらうとまだ土砂降りの往来へと飛び出してしまった、それこそそれこそ恋ある身ゆえに。
 かくて二年の歳月相経ち申候。
 くわしい経緯は書く必要がないから言わない、意地っ張りの私は意地を張ってその頃人気の頂点にあったその宝塚の女優さんとの婚約を解消し、上方三界を自棄にほっつき歩いていた。宝塚の人と別れたのにわざわざ上方へ漂泊しにいく手はまったくなかったのだが、なぜかその頃私の作品は「苦楽」はじめ「週刊朝日」「サンデー毎日」と上方の雑誌ばかりが歓迎してくれていたので、飛んで火に入る夏の虫みたいだったが、けだしヤムを得なかったのだった。ひどい深酒ばかりしては囃子哀しい法善寺横丁の花月や紅梅亭へ、連夜のようにかよいつめて、せめてもの憂さを、亡き枝雀や枝太郎や春團治の高座高座に晴らしていた。その頃反対派の大八会といういたってしがない寄席の方に、たまたまこの日本太郎が出演していた。相変わらずの柔道着で「瓜や茄子」や独劇などを演っていた(同じ頃この派に雌伏期のアチャコがいた)。でもその時例の松葉とかいう馬面の女はもういっしょに出てはいなかった。しかも同じ頃誰かから聞いたところによると、松葉は十二階下あたりの魔性の女で、すっかりはまり込んでしまった日本太郎がこの女ゆえに仲間とも別れ、妻子をも棄て、大阪三界のそれも端席へと落ち込んでしまった、しかも太郎に棄てられたことを苦に病んで死んでしまった女房をさすがに哀れと思ったのだろう、一日、松葉と二人天王寺へ亡妻の骨を納めに行く途、通りがかりの自動車に轢《ひ》かれて松葉は即死し、さしもの日本太郎は、今はいと味気ない日々夜々おくっているわけなのである、と。
 そう聴かされて私はさすがに他人事と思えない哀れを覚えた。覚えずにはいられなかった。神祗釈教恋無常と人の世の味気なさを囀《さえず》っているものは、すなわち私一人でなかったのだった。でもそののち上方に、小田原に、東京に、その女優さんと別れてからの私の生活は、ことごとくいけ
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