この頃の人たちのただ何でも襲名さえすればいいというのとちがって、さすがに昔の芸人の心持ちといったようなものをゆかしく感じないわけにはゆかない。かくてこそまた芸人の襲名ということにも、伝統の花の香ほろほろと滲みあふれてもこようというものではないか。
ちなみに、狸の小勝。大柄の、でっぷりとした男で、噺はそうたいして上手ではなかったそうな。風貌、狸に似たりとて、この仇名があった。
今の伊志井寛君、舞踊家の石井美代さんの厳父である。
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日本太郎
さっき[#「さっき」に傍点]の知人の手紙にもあった日本太郎はどうしたろう。恐らくもう死んでしまったろう。日本太郎には、わが青春の明暗二つの思い出が絡まっている。少しおもはゆいが今日はそれを書いてみよう。
太郎は矮小ないと[#「いと」に傍点]貧弱な壮士風な男で、お釜帽子をかぶり、懐中から紙の雪を取り出してちらし、ピストルを射ち、捕縄を振り廻し、刑事と怪盗の大捕物よろしくの独劇をやった。また風音で慌しくことあり気に現れて来てあたりを見廻し、
「高い山から谷底見れば、瓜や茄子《なすび》の……」
ここまで棒読みのように言って、さて五本の指の尖を上向けて丸く集め、花ひらく恰好を二度(すなわちそれが瓜と茄子との花なのだろう!)やると同時にすててこの時のようなスポッスポッという音を同じく口で二度させて、
「花盛り……花盛り……」
とまた同じ調子で言い棄ててそのまま下りて行くこともあった。新内流しを合方に皺枯れた先代團蔵の声色は、まだ耳許に残っている。
また太郎は客席へ針金を張りめぐらしてそこを自在にわたったそうだが、これは私は見ていない。始終蛇を懐中《ふところ》に入れていて、大蛇運転法というのも見せたそうだが、これも私は見なかった。ただその愛用の蛇を振り回しては楽屋のものを脅かすので、連中が音を上げているというような話はしばしばいろいろの人たちから聞かされた。
それにしても日本太郎、いったい、どういう素性の人だったのだろう。自由党の壮士くずれで、北海道の某《なにがし》監獄を脱監したとか聞いているが、どうもそれはどの程度までほんとうにしていいのか知れたものではない気がする。「一心如鏡」とかいう刺青があり、それを高座でまくって見せたりしたこともあったという話は、かつて金語楼から聞かされた。
いずれにもせよ、ちょっとすばらしい大げてもの[#「げてもの」に傍点]だったとはいえよう。やってみせることの全部が全部皆くだらなすぎて、げて[#「げて」に傍点]もここまできてしまえば、これはこれでまた充分に結構じゃなかったのかと今にしてつくづく思う。
「昔は日本太郎などというゲテものは岡鬼さんの当座帳などでうんとやられたものだったと思うが、今ではその日本太郎味が時に少々ナツカシクなるなどは、星移り時変わるですね」
と木村荘八画伯が「寄席冊記」(大正十四年)の中で言っていられるのももっともで、大正十四年にしてすでにしかり、昭和十九年の今日、初老の私が昔なつかしくこれを書いているなど、ことわり[#「ことわり」に傍点]すぎて道理なりと言いたいくらいのものだろう。
さてその日本太郎が松葉とかいう色の黒い馬面の女とつるみ[#「つるみ」に傍点]高座でそののち睦の寄席へ現れ出したと思ったら間もなく消えて、震災の翌年の九月には、牛込肴町の柳水亭という端席へ、独演会の看板を上げた。ひどい晩夏の土砂降りの晩だったが、私はいそいそ聴きに出かけた。白状してしまうが、この、いそいそは単に日本太郎聴きたさのためばかりじゃなかった。
じつはその頃婚約していた宝塚のある女優さん(レビューガールの語はまだ日本にはなかった!)がやっと数日の休暇をみつけて(私の方からはしじゅう上方まで逢いに行っていたが)明日は上京してくるという、すなわちその前夜だった喜びもなかなかに手伝っていたにちがいない。その興奮の対象にされた日本太郎こそまことにいい面の皮だったともいえようし、ためにお客一人増えたのだとすればまんざらでもなかったのだともまたいえよう。柳水亭はその後、勝岡演芸場となって晩年の若水美登里などの安芝居の定席となり、のち[#「のち」に傍点]東宝系の映画小屋となってしまったが、電車道に沿って二階いっぱいに客席のある寂しい小屋だった。かてて加えてひどい大雨の晩だったので、お客はせいぜい二十何人くらいしか来ていなかった。定刻の六時になると文字どおりの独演会で、奴さん、前座もつかわず、ノコノコ高座へと上がってきた。そうして、近所の牛込亭や神楽坂演芸場《かみはく》の落語家たち(ついこの間まで彼自身もその仲間だった)の独演会のやり口を口を極めて罵り、自分のような、この、こうしたやり方こそがほんとうの独演会なのだとまず気焔を上げた。
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