返し繰り返ししてほしかったと思います。が、要するにこののち何回も何回も聴きたい「佐平次」ではあることを申しておきます。
「火事息子」は私たちの心のふるさとだったはるかなる日の下町生活を、郷土の声を蘇らせてくれました。火事のまくらが、「道灌」のギャグと同じちょっと呼吸に損な点があるが(必ず次回にこちらの註文の出し方を掴んでみます!)他はことごとく「大真打」としての芸格あるものでした。先代志ん生にこの演出の速記あれど火消しになった若旦那が夢に母に会って泣いているのを仲間に起こされ堅気に戻れと意見される冒頭など充分にさしぐまれました。人物情景もよく出ていた。たまたま昼間から長田幹彦氏の「蕩児」を読んでいたことも一奇ですが、何にしても私は幼い日の下町を美しく思い出していたのです。古い暖簾、黒塀の質屋、初午の太鼓、いろいろの風物詩がホロホロとうかんできたのです。それだけでたいへん幸福でありました。帰りはみぞれのような黒い雨が降っていました。その中を帰って来て、女房と一杯飲んで寝ました。
[#改ページ]

   拾遺寄席囃子



    先代鶴枝

 百面相ではかつて先代鶴枝と死んだ福円遊とについて書いたが、まったくもうあの鶴枝ほどの蛸入道は見られない。すててこの合方早目に桃色の手拭い深く面体包んだ鶴枝の蛸は、それこそほんとうの「蛸」そのものになりきっていた。かなしや泥棒になってしまった今の鶴枝も小まんという人も、やはり一番おしまいに蛸はやるけれど、ははあいま[#「ははあいま」に傍点]の鶴枝が、小まんが今ああして蛸の真似をやっているなと感じられるばかりである。ところがそこへゆくと先代鶴枝の場合は、演じている人自身の存在なんかたちまち芋畑の芋の葉かげへスッポリコと隠れてしまい、ただもうそこには大きな蛸の跳躍ばかりが、乱舞ばかりが、いと華やかに、いとおおどかに展開されているのだった。今にして特技といわずにはいられない所以である。
 この頃神戸にいる知人から先代鶴枝についてはこんな手紙を寄せてきた。ただし、私は永らく大阪にいながら文中の「部屋見舞」とかいう菓子細工はついに知らないのであるが、たしかに先代鶴枝の技巧的な美しさとは一脈相通ずるもののあるような心もちがしてならない。
 曰く
「鶴枝の百面相は猫八の孤憤、日本太郎の咆哮以上なつかしいもの。お嫁をもらうゆえ、箪笥《たんす》をゆずってくれと言われ箪笥の奥から姉が嫁してきた時の『部屋見舞』(関西では色や形とりどりの大きい饅頭を作る)松竹梅や高砂の尉《じょう》と姥《うば》、日の出、鶴亀、鯛等で今でも布袋《ほてい》が白餡で、鯛が黒餡であったことを覚えている。僕は子供の時、間食は焼き芋と果物だけであとは皆キライで食わなかった。鶴枝はちょっとあの感じである」云々。
[#改ページ]

    狸の小勝

 死んだ小勝がしばらく名声隆々としだしてきた頃、「今戸焼」などのまくらで、羽子板には人気役者の二人立ちてのがよくあるが、役者ばかしやらないでたま[#「たま」に傍点]には小さん、小勝の二人立ちでもこしらえるといい、もっともこの間、あったけれど、それは渋団扇だった、よくこうしたくすぐり[#「くすぐり」に傍点]を振っていた。
 あの男の独創かと思っていたら、明治三十二年十二月号「文芸倶楽部」には先々代小勝(この間の人のように三升家《みますや》ではなく、三升亭《さんしょうてい》を名のっていた。さらに初代の小勝は江戸時代であるが、声色《こわいろ》に長じ、尾上小勝であったと聞く)の「山号寺号」が載っていてそのまくらに、これははじめから団扇のことにして、
「花鳥を描いた団扇でも、たいていなら三銭五厘か四銭ぐらいで買えますが、これが俳優《やくしゃ》の似顔でも描いてあツて御覧《ごろう》じろう、六銭や七銭はいたします(中略)我々落語社会の顔なんぞ描いたものなんざアありゃアしません。もっともないことはない、いつぞや小勝《わたくし》が牛込の夜見世を素見《ひやか》したら、あッたから見ると、団扇は団扇だが渋団扇でげす、落語家がすててこを踊ッている絵が描いてあるから、いくらだと聴きましたら、値段《ねだん》がわずかに八厘、その傍にまた何にも描いてない団扇がありましたから聴きますとこの団扇も八厘、してみると絵の描いてあるのも、描いてないのも同じことで、誠にどうも落語家ほどつまらんものはございません(下略)」
 まさしくこの間の小勝のは、このまくら[#「まくら」に傍点]の単刀直入な換骨奪胎だったのである。それにしてもあのヌケヌケとした小勝にして、己れに「小勝」をなのった以上はよしやまくら[#「まくら」に傍点]のはし[#「はし」に傍点]にしてもこうして先代の何かを継承しようと腐心していたことを思えば、伊藤痴遊氏もかつて憤っていられたごとく
前へ 次へ
全13ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
正岡 容 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング