なかった。かくて私の「青春」はすべて暗黒だったと今にしてハッキリと言いきれる。
 かくてまた五年の歳月経ち申候――昭和五年。
 その、初夏のある朝、これももう亡くなった小奇術《こづま》の巧かった弄珠子ビリケンと、私は名古屋の大須観音境内を、中っ腹の朝酒でブラブラしていた。いよいよ自棄に身を持ち崩していたその時の私は、もう噺家の真似事をしていて、新守座の特選会へ出ていたのだったが、その時|卜《ぼく》していた世帯が少しもおもしろいことはなく、しかも未見のうちから密かに会見を楽んでやってきた今度私と新守座へ割看板の、その頃新橋教坊の出身で、新舞踊をよくする人とは会談どころか出演料のことで二日目から正面衝突をしてしまい、よりどころなき憤満を、折がらの朝酒に紛らわせてはいたのだった。
 たまたまそこへ皮肉にももうその頃新国劇へ転じていたかつての婚約者たりし宝塚の女優さんの名の入った近日びらの、市中至るところ、薫風にひるがえっていたことも、いよいよ私にはいけなかった。日夜の乱酔へ、そういっても拍車をかけずにはおかなかった。しかもその時ハッと我が酔眼に映じたものは、かの日本太郎その人が、路上、短冊色紙の類いを数多く並べてうっていた世にも佗びしい姿だった。都々逸ひとつ歌っては「ひとつやることが学問のある仁はちがう」とうそぶいていたくせに、じつは新聞一枚満足に読めなかったそうな太郎は、その代わり高座でもよく稚拙な絵の曲描きはやっていた、下座に「夕ぐれ」などを弾かせて。今まさにその稚拙画を色紙に短冊にぬったくって往年の日本太郎は、道ゆく人々にわずかにそれを沾ってはいたのだった。
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いささかの未練はのこれ 野悟となる 身のはての何を思はむ
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 かつてわが師、吉井勇はこの詠あったが、その時の私も殷鑑《いんかん》遠からず、今|目先《まなさき》にある日本太郎の姿こそ、やがてくるべき日の自分自身であるかのごとくしきりに考えられてならなかった。そういううちも出演料のことでもめている割看板女史のことを考えるとまた新しい憤りさえ含《こ》み上げてきて、すぐまた私はビリケンをさそい、傍らの飲み屋へ入っていった。一時間、酒が切れると、すぐ手がふるえ、舌が痺れる、よるべないその頃のアル中の私、重ねて言うが、明日の知れない、人生いとも暗澹《あんたん》のその頃の「私」だったのだった。

 でも、人生のことはわからない。
 それからまた十一年の歳月が相経ち申候の時、なんと私はその新守座へ割看板で出演し、即日、確執を生じてしまった人と結ばれて夫婦になった。すなわち今の女房である。
 私と同じくのざらしとなるかと危まれた日本太郎も、花街にあった娘に良縁があり、どうやらいっぱしの楽隠居になって老後安楽でいるとか、あるいはもうめでたく一生をおわったとか聞いている。わが身に引きくらべてもこの畸人《きじん》の晩年だけは、安らかなれと祈りたい心持ちでいっぱいである。
 それにしても再び言うが日本太郎、何が動機でああいう大べら棒な芸を演るようになり、また数奇な一生を経たのだろう。そのうち左楽老人にでも、とっくりと聴いて見たいと思っている。よほど、小説的な前半生があるのかもしれない。
 さて宝塚から新国劇へと転じたかつての婚約者には十日ほど前、街上、ゆくりなくもめぐりあった。私より二つ年上だったから四十三歳になるのだろうその人は、近頃あまりいい精神生活ではないのだろう、小肥りなくせにへんに佗びしくなってしまっていて、自ら勢い立っていたあの頃のおもかげは見るよしもなく、春曇りの午後、佗びしく私は、四谷、さる街の十字路で右左に別れてはきたことである。



底本:「寄席囃子 正岡容寄席随筆集」河出文庫、河出書房新社
   2007(平成19)年9月20日初版発行
底本の親本:「随筆 寄席囃子」古賀書店
   1967(昭和42)年5月刊
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2009年1月5日作成
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