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薄暗い本堂の中まで、かっと明るい春の光がさしこんできていた、三月二十三日午前、下谷桜木町浄妙院。貞山・山陽・蘆洲・小さん・文楽・可楽・志ん生・圓生・圓遊・左楽といったような講談師落語家がぐるりと居流れて合掌していた。野村無名庵君、斎藤豊吉君がいた。今村信雄君夫妻がいた。うちの女房は岡本文弥、宮之助二君と並んで座っていた。私と馬楽とは施主だからとて一番まん中に座らせられた。お経のすんだあと、
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いやさらに寂しかるらむ馬道の
馬楽の家の春の暮るれば
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と吉井勇先生の狂馬楽の短歌を、文弥君が宮之助君の絃で朗詠しだした。短歌はみんなで五つあった。その五つの歌と歌との間へ、新内流しが、騒ぎ唄が、下座囃子が、雪の合方が、心憎いまで巧緻に採り入れられて弾かれた。吉井先生の「俳諧亭句楽」「狂芸人」以下一連の市井戯曲を読んだことのある人たちは記憶しているだろう、あの狂死せる三代目蝶花楼馬楽(本名を本間弥太郎といったので、人呼んで弥太ッ平馬楽)の二十八回忌。一月十六日の祥月命日をお彼岸の今日に延ばして、私は師、吉井勇先生の代参に今年で七年、月詣りをしているところから馬楽はその五代目の名跡を襲っているところから、ともにこの法会を営んだのだった。馬道に、また富士横町に住んでいた狂馬楽は「註文帖」や「今戸心中」時代の吉原で、寄席へゆかない日夜の大半を生活していた。「夜の雪せめて玉丈《ぎょくだ》けとゞけたい」は、この間の心境を痛切にうたった弥太ッ平馬楽の告白といえよう。すなわちその姿をば文弥君は、三下がりの騒ぎ唄の中に世にもクッキリと描いたのだった。うつらうつらと目を閉じて聞いていた私の目から、騒ぎ唄の弾かれたとたん、急におびただしい涙がはふり落ちてきた。そうして、生ぬるく頬へつたわった。
明治末から大正初年の、のどかにも、ものしずかだった日の、芸人暮らし。あの日あの頃の、馬道界隈。浅草花川戸で幼時を送った私には、それらがまるで消えかけた祖父母の写真でも見るように、ボーッと瞼にちらついてきたからだった。それにはこの私自身とて、下町から山の手へ、上方へ、小田原へ、また東京へと、いかばかり幾変転の流寓の来し方ではあったことよ。初めて吉井先生の片瀬のお住居を叩いてのことにしてからが、そも幾年月になることだろう。故あって永いことおたよりもしないでいた先生からは、阪地に病みて久しい三遊亭圓馬(三代目)慰むる会を催したことをよすが[#「よすが」に傍点]に、ゆくりなくもこのほど音信に接することができた。それはつい十日と経たない前の出来事で、古川|緑波《ろっぱ》も徳川夢声も高篤三も、親しい友だちはみな我がことのように欣んでくれた。そうしたことも今この馬楽の歌の三味線に、いっそう私を泣かしめたのだった。ようやくに堪《こら》えてソーッと目を見開いた時、濃茶色の洋服にめっきり老いた三遊亭圓遊も、しきりにハンケチで目頭を拭いていた。私の死んだ時もこれをお経の代わりにやってくださいよ、その時古今亭志ん生はこう言ったっけ。
お墓へ行った。お墓といってもほんとうのお墓は築地の門跡様の寺中にあったのだから、もう無縁で恐らく跡形もなくなっているだろう、三代目小さん・今輔・馬生・文楽・左楽・つばめ・志ん生・燕枝の柳派の人たちで建立した座像のお地蔵様ばかりがここに残っている。その建立した人たちも今ではみな死んでしまって、今日も来てくれている柳亭左楽がわずかに達者でいるばかりである。緋桃《ひとう》が、連翹《れんぎょう》が、※[#「木+虎」の「儿」に代えて「且」、第4水準2−15−45]子《しどみ》が、金盞花《きんせんか》が、モヤモヤとした香煙の中に、早春らしく綻びて微笑《わら》っていた。また文弥君が、最前の短歌を繰り返し繰り返し、朗詠しだした。
そのあと、近くの明月園で心ばかりの午餐を食べてもらった。寄せ書きをして、吉井先生、久保田さんへ送った。
席上、貞山がこんな話をした。
年の暮れ、この頃山の宿にいた馬楽のところへ行ったら「加藤清正蔚山に籠る」と書いてくれと言う。よしよしとそう書いてやったら、その次へ「谷干城熊本城へ籠る」と書いてくれと言う。また書いてやったら、今度はそのあとへ「本間弥太郎当家の二階へ籠る」と自分で書き、堂々と玄関へ貼り出した。そうしてそれを大家に見せて談じ込み(いったいどんな談じ方をしたのだろう!)とうとう家賃を負けさせてしまった、と。いかにも「古袷秋刀魚にあわす顔もなし」と詠んだこの男らしくておもしろい。
左楽はまたこんな話をした。
初音屋と呼ばれた人情噺の柳朝(春風亭・三代目)と馬楽と自分と三人でひと晩遊びに行ったが、その頃のお歯黒溝に沿った家々にはみな跳橋《はねばし》というものが向こう側まで掛け渡されていた。平常はそれがピーンと跳ね上げてあり、用のある時だけ下ろす仕組みになっているのだが、しかしながらそれを渡って帰ると滅法近い。で、廓内のもののような顔をして柳朝、
「ヘイお早ようござい、恐れ入りますが、ちょいとあの裏の跳橋を――」
といちいち下ろさせ、平気な顔をして渡って行った。馬楽はまたその帰りひとッ風呂、朝湯へ飛び込むとそこに預けてある知らない人の石鹸をまるでその人の友だちのようなことを言ってはひとつひとつクンクン嗅ぎまわり、中で一番匂いのよさそうなのを選んではヌケヌケとつかった。
「そういう私も、あの時分は日掛けの金が払えなくって家へ帰れず、本間さんの二階へ転がり込んでいたんですが、ね」
もう七十幾つになるだろう、思えば元気な左楽老人、つるつるの赤茶けた頭を撫でまわしながら、思い出深げにこう語った。
ささやかな庭先、春の日がだいぶ傾きかけていた。
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歳晩日記抄
十二月二十六日。
大寒の入りのような厳しい寒さ、風も烈しい。その中を岡本文弥君宅へ行く。先月の女房の発表会以来絶えて久しく会はなかったし、いろいろ来年度の打ち合わせあるためなり。来客中、少し耳の遠くなった宮染さんと話して待っている。お客が帰りだいたい打ち合わせを終えた時青い眼鏡をかけた玄人らしい赤ばんだ顔の中年の女の人が入って来て、心易げにそこの炬燵の中へ手をいれてきた。間もなく私の帰ろうとした時、もうその女の人は隣の部屋でしきりに宮染さんから稽古をしてもらっていた。ハッキリ聞きとれなかったが、「累身《しじみ》売り」のようだった。
ワザと省線巣鴨駅下車。沿線の細い崖っぷちから見番の横のだらだら坂の方を遠廻りして帰ってくる。何となくこの道が愉しめて好きなのなり。「陸橋や師走の山の見えにけり」の句を得た。
帰ると見馴れない男女の草履それに子供の靴、稽古場の電気蓄音器からは志ん生君の「氏子中」のレコードがせわしなく聞こえてきている。この間、馬楽君と南支へ皇軍慰問に行っていた橘の百圓君夫妻とその坊やの来訪なのだった。来年、橘家圓太郎を襲名するについて高座で吹き鳴らしたいと言っていた真鍮の喇叭《ラッパ》、豆腐屋さんが皆献納してしまったので入手困難だとかねがね百圓君が言っていたが、今度留守中に親切な人が手に入れておいてくれ、先日、三カ月の慰問を終えて同君がはるばる八王子駅まで帰って来たら、山なす出迎えの人たちの中で一人がブーブーこれを吹き立てた由だ。喇叭の圓太郎襲名に相応しいいかにもうれしい話ではないか。その話の最中へ、桂文楽君がやってくる。昨日文楽会忘年宴を休んだため、心配して来てくれたのなり。かたがた、来春の文楽会の打ち合わせ、向上会のことなど、いろいろ相談する。相変わらず文楽君の話はその得意とする「つるつる」や「干物箱」や「鰻の幇間」中の人物のように軽くやわらかく愉しくていい。師走を忘れて他愛なく笑ってしまう。
文楽君帰り、やがて百圓君たちも帰る。
早い夕食を終えて女房と、近くの大塚鈴本へ。今夜は太神楽大会。去年見損っていたものなり。入って行くとすっかり年老《としと》って見ちがえてしまったバンカラの唐茄子が知らない男と獅子をつかっている。楽屋で時々「めでたいめでたい」というような声をかけるのがひどく古風でおもしろい。続いて唐茄子がやはり知らない男と「神力万歳」というむやみに相手の真似ばかりしたがる可笑味のものを演る。理屈なしに下らなく可笑しい。温故知新というところだろう、まさしくこれなどは。そのあといろいろ間へ挟まる曲芸の、五階茶碗や盆の曲や傘の曲やマストンの玉乗りやそうしたものの中では丸井亀次郎(?)父子の一つ鞠《まり》ががめずらしく手の込んだ難しい曲技を次々と見せてくれた。あくまで笑いのないまっとうな技ばかりで、その技がみなあまりにもたしかなので好意が持てた。近頃こんな上手がでてきたのは頼もしい。
若い海老蔵が「源三位《げんさんみ》」を演るとて、文楽人形にありそうな眉毛の濃く長いそのため目の窪んで見える異相の年配の男を連れて出てきた。いずくんぞしらん、これが往年の湊家小亀だった。何年見なかったろう私はこの男を。その間の歳月がまるでこの男の人相を変えてしまっているのだった、でもだんだん見ているうちに額に瘤《こぶ》のあるなつかしいあの昔のおもかげが感じられてきた。それにこの頃少しも高座へ出ないが生活も悪くないと見えてチャンとした扮《こしら》えをしていた。艶々と顔も張り切っていた。少なからず私は安心した。浅草育ちの私にとって湊家小亀は十二階の窓々へかがやく暮春の夕日の光といっしょに、忘れられない幼き夢のふるさとである。感傷である。新内もやらず、得意の関東節も歌わなかったが、そうして衰えは感じられたが、昔ながらの猪早太はなつかしくうれしかった。※[#歌記号、1−3−28]ストンと投げた のあとへ、※[#歌記号、1−3−28]あいつァ妙だこいつァ妙だまったく妙だね――の踊りの繰り返しにもめっぽう嬉しさがこみ上げてきた。※[#歌記号、1−3−28]裸で道中するとても――の飛脚のような振りをするところも絵になっていてよかった。そのあと、「箱根関所」の茶番。これは巴家寅子、丸一小仙の役人、海老蔵の墨染、小亀の角兵衛獅子という贅沢な顔づけがわけもなくありがたかった。「親父が作兵衛、子供が角兵衛」と踊り出すここの繰り返しも軽妙で江戸前だった。総体に江戸茶番の愉しさはこうした可笑味の振りの繰り返しのところにあるといえよう。中入り過ぎに寅子のチョボで、小仙の松王、海老蔵の源蔵、唐茄子の千代、松太郎の熊谷、もう一人名前をしらないやせぎすの男の敦盛で、これもいっぱいに活かしていてなかなかにコクがあった。日本に、東京に、伝統されている「芸」の喜び。久しぶりで私は年忘れをした満足をしみじみと味わわされた。
十二月二十八日。
ボンヤリ日の暮れ、炬燵へ入っていた。すでに書き上げた長篇『圓朝』のテニヲハ直しが手につかず、あぐねてポカンとしていたからだった。古今亭志ん太君が入って来た。志ん生君が今夜私と忘年宴を張りたいからというその使者だった。すぐ仕度していっしょに出かけた。東宝名人会まで行って打ち合わせ、志ん太君の案内でひと足先へ新宿の廓の裏にあるささやかな料亭へ連れて行かれる。座敷に胡瓜と空豆の其角堂の夏の色紙がかかっていた。間もなく志ん生君、駆け付けて来て飲みはじめる。まず麦酒《ビール》、それからお酒。なめこ[#「なめこ」に傍点]の赤だしが美味しかった。私と志ん太君だけ海鼠《なまこ》をやり、歯の悪い志ん生君は豆を食べる。豆で飲むとは奇妙なり。この間、同君が落語化上演した拙作小説『寄席』を中心に、いろいろ芸談が、次々とでる。今も決して自分を巧く思っていないという志ん生君の言葉に打たれる。私は五カ月悶々した『圓朝』について語る。同君、これも上梓されたら演りたいと言う。ぜひ私も演ってもらいたい。今の世にもっとも我が愛するところの落語家は志ん生、文楽の二君。この両君と酔いては芸談を語り合う自分は、いろいろの意味で幸福なり。うれしくなって大いに飲む。酔って何べんか志ん生君と握手する。夜更け、
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