名のいたずらに存しながら「名人」の実の容易に現れざる所以《ゆえん》である。
しかるに、だ。現下東西落語界を通じて我が桂文楽は、まさしくそうした何十年にいっぺんという、尊いまたとない存在である。巨匠圓馬病みて以来ほんとうにもう彼以外の何人に、これを求めることができよう。
この人の「鰻の幇間《たいこ》」に大正初年の旧東京のあぶら照りする街々の姿をば呼吸できる人、「花瓶」のお国者の侍がしびん片手に得意満面、馬喰町《ばくろちょう》辺りの旅籠さして戻り行く後ろ姿に舂《うすづ》いている暮春の夕日の光を見てとれる人、さては「馬のす」の釣竿しらべている主のたたずまいに軒低く天井暗かりし震災以前の東京の町家の気配をさながらに目に泛《うか》べられる人。
それらの人たちはことごとく、前述のこの人への私の言葉の過褒《かほう》にあらざることを、即座に首肯してくれるだろう。
しかも、この文楽、今に永遠の青年としての不断の情熱を、研究心を、もち続けている。
現に「富久」「馬のす」「花瓶」など、ついこの間、研究初演したばかりだし、引き続き「芝浜」「九州吹戻し」と一つ一つ年月をかけて、己のレパートリィを増やしていこうと精進している。それがまったく当たり前のこととはいいながら、これだけの芸境に達していてなおかつ、この努力、この勉強――。
あえて――あえて言う。他に何人あるか(恐らく志ん生以外にあるまい、大看板では)。
私はそこに傾倒するのだ。
今、圓馬系の噺は、次々と文楽によって伝統正しく伝えられているが、しかも圓馬丸写しにしてはならないと、いしくも悟っているところに、さらに文楽の「非凡」がある。「明日」があるともいえるだろう。
ご承知の圓馬の豪快味に比べる時、文楽の芸質はおよそ軽快にして繊細である。顔も、容姿も、持ち味全体も。
その点、己を知ること厚き文楽は、ひととおり圓馬写しに腐心した噺をも個々の登場人物を地の文のメリハリを、さらに文楽流に養い育てていくべく、それぞれ第二の腐心をあえてしている。すでにそれが成功してしまったものもあり、今だ研究中のものもある。
ゆえに我が文楽の「芸」の冴えは、今後においてこそいよいよ鋭く光芒を放つ楽しみがあるといえよう。同時に「芸は一生の修業」この言葉をこんなにも身をもってマザマザと見せつけてくれる人もまたない。
ひと頃、文楽は巧いけれど噺の数が少ないと、よく言われた。そうしてこの私自身もまた、そう信じていた。少なくとも五、六年前までは。
が、そののち私はこの人の修業法を親しく相見るに及んで、ようやくそうした非難の認識不足もはなはだしいことを悟るに至った。
くどくも言うとおり、文楽の「芸」の歩みは、歩一歩。あくまでナンドリと、ネットリと、永い永い星霜の下、一つの噺を掘り下げ、磨き、艶出しをして、そうしてこれならばいいと得心のいったところで、はじめて次の「噺」へと第二の鍬を掘り入れていくのである。
従って空に、他所目で見ている時、わずかまどろっこし[#「まどろっこし」に傍点]い感じがされるけれど、この人、六十歳、七十歳にまでなった時、その上演種目の、意外におびただしき数にのぼっているに、人、驚きの目を瞠《みは》る、必ずやその時があるだろう。私は、それを固く信じて疑わないとともに、それだけにまた我が文楽の自愛、自重、加餐《かさん》を、切に切に衷心から祈って止まないものである。
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大東亜戦大勝利の夜の寄席
プリンス・オブ・ウェールズが沈み、香港が陥ち、そこかしこの海戦にはめざましい捷報《しょうほう》が続々もたらされてくる年の暮ぎりぎり、病後の私は「近世浪曲史」六百枚の最後の項を急いでいた。
たまたま年代その他のことで服部伸君の示教を得なければならないことが起こったので、近くの大塚鈴本の楽屋を訪れた。服部君の高座から下りてくるまで、楽屋で私は待っていた。左楽老人がいる。紙切りの正楽がいる、故柳枝(春風亭・七代目)門下の目の悪い若い前座がいる。
「何しろ日本の爆撃機が戦闘機を追い駆けていくってじゃありませんか、あなた」
火鉢へ手をかざしながら正楽は、
「ソそんなあなた、それじゃ鼠が猫を追い駆けているようなもんでさ、ねえ」
「……強い……何にしても強い……」
嘆ずるように左楽老人が口を開いた。昔、乃木将軍の幕僚として日露の役に走《は》せ参じ帰って来てから軍服で高座へ押し上がり、「突貫」や「凱旋」という時局落語に一躍人気者となってしまったこの人。「乃木さん」もしじゅう演っていたが――。いつまでも丈夫ではあるが、めっきり年とともに色が黒くなり、シミだらけになってしまったこの老勇士の顔を、しみじみと私は見つめた。
「年の暮れでこの寒さで、この戦争で、だのにこんなにお客様がやって来てくださる。みんな皇軍大勝利のおかげですよ」
子供が大好きなお菓子を貰ったよりもまだ嬉しそうに、目の悪い若い前座は顔全体を雀躍《じゃくやく》させてはしゃいでいた。この人のこの時の顔を生涯私は忘れないだろう。拍手が起こって服部君が下りて来た。
凩《こがらし》が、しきりに格子窓の外で吹き荒れていた。
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この二、三日のこと
安住さん。
晦日の晩の富士市へおいでになったそうですね。昨夜、高篤三のところへいって、お朔日《ついたち》の市をぶらつきあなたのお見えになったことを聞いて、たいへん残念に思いました。昨夜は、秋に日本橋倶楽部で催すことになった女房の新舞踊発表会の相談にいったのでしたが、同じ富士市でも六月のお朔日の時とはちがって、もうすっかり夏になりつくした明るい景色が、さまざまな植木にも、虫売りたちにも、また釣荵《つりしのぶ》屋の上にもマザマザと感じられました。ことによるともう夏の終わりを思わせるような儚ささえただよっていて、とりわけ虫売りは三軒も四軒も出ていました。ただ去年あったような赤や白や黄や水色や茶や、五色のお砂糖の雛菓子のように飾り立てたお菓子屋は、さすがに今年は六月の時も今度も見当たりませんでした。だんだん売るものが世帯じみてきて、この市のあくまで夏の巷のお祭らしい風情がなくなってゆくとしきりに高は嘆じていました。
……今日は朝から薄曇りして蒸し暑い。その中で、書下ろし長篇小説『寄席』の校正を、今までしていました。おかげでもう二百二十頁できました。もうひと呼吸で峠を越します。この本の出版記念演芸会をやる計画が本屋さんに今あって、じつは昨夜は女房のばかりでなく、私の方のその相談にも出かけたのでした。
話が二、三日前へ遡りますが、二月から三月へこの『寄席』を仕上げたあと、また中篇短篇とりまぜて一冊分仕上げ、続いて、先月からこれも書下ろしの長篇小説『圓朝』にかかって、百余枚ほど書いてきたところで、すっかり、頭をやってしまいました。たいてい月にいっぺん、書けなくなってしまう時はあるのですが、今度のはちとひどすぎて、この間の晩、高が訪ねて来てくれた時なんてとんと態はありませんでした。声をつかう商売の人たちには調子をやるといって時々パタンと声の出なくなってしまう時があるのですが、私の頭もそれらしい。で、潔く『圓朝』当分放棄することにして、枕許に堆積している原稿紙を風呂敷へ包み、戸棚へしまってしまいました。そうしてただぼんやりと、空に、徒《あだ》に、日々夜々をすごすことに覚悟のほぞを定めました。私のような何かしら書き続けていることのほかに歓びのない男にとっては、これがなかなか苦患なのですが、今度のようにほんのちょっとした雑誌の六号雑記、二、三行読んでもすぐクラクラとしてしまうようなことになっては……。
幸いに二十九日。しとしとと霧雨が煙っていましたが、橘の百圓に頼まれて、八王子へ女房と妹とが防空監視隊の慰問に踊りにゆくことになっていたので、さっそくそれにくっついて行きました。小屋は舞台開きには六代目(尾上菊五郎)がきたといわれる昔の関谷座で、今東宝劇場とかいっています。そこへ駅からまっすぐに乗り込みました。小さい狭い楽屋の窓から裏の空地の梅の木に梅の実が一つ、赤黄色く熟れているのが寂しく見られました。雪の下がいっぱい無風味なほど大きく青黒い葉を繁らせていました。昔、女房と行った鳥取のある小屋の楽屋の景色をふっと私は思い出しました。正午にからだが空きましたので、百圓のやっている撞球店へ帰って来て中食。みんなで高尾山へ出かけました。バスを棄て、ケーブルを棄てるとしきりに霧が這《は》ってきては私たちを包み、またスーッと遠のいてゆきました。ようやく見晴らし台まで上ったけれど、やはり霧ばかりでなにも見えない。ただしきりに山鳩が啼き立てていました。携えてきた冷酒を飲んだりして、またケーブルカーで引き返しました。続いてバスを待つ間、ひどく土砂降りの雨にあいました。辺りが真っ青に暮れかけてきました。八王子の町へ着いた頃にはもうとっぷりと暮れつくして、この甲州街道の親宿へは、ざんぎり物の書割のように灯が入っていました。何とかいう牛肉屋へ案内されて、ふんだんに牛と、豚を食べました(そうそう、昼間、この町の古本屋でまだ新しい久保田万太郎氏の『東京夜話』、近松秋江氏の『蘭燈情話』など求めました。そこには同じ久保田さんの『駒形より』のたいそう綺麗なものもありましたっけ)。さて、ぐずぐずに酔って、その晩、遅い電車で帰って来ました。
晦日はおかげでだいぶ、頭が治りました。ハガキを書くと少し手が慄《ふる》えたが、もう痛まないだけでも大助かりです。やっぱり八王子へ行っただけのことはあったと思いました。元気で、薄ら日の中を、浅草の熊谷稲荷のはなし塚の法会へ出かけてゆきました。いろいろの落語家たち、講釈師たち、野村さん、鈴本亭主人、伊藤晴雨画伯、それに小咄をつくる会の人たちなどに会いました。珍しく二階にしつらえられた本堂で私は、文楽君と並んで座って、ぼんやり読経を聞いていました。芥川さんの何かの小説に「読経を新内のように聴いていた」という一齣《ひとこま》がありましたね。何がなしあれを思い出しながら、ここから見渡される近所の屋根屋根がひどくバラックめいてお粗末なことに腹を立てました。文楽君も同感だと言いました。一時頃帰ってロッパ君の稽古場へ遊びに行こうか富士市へ行こうかと思いましたが、結局どっちへも行かないで宵寝をしてしまいました。この晩浅草へ足が向いていたらあなたにお目にかかれたのでしょう。夜中に三度目をさまし、またすぐ寝ました。いつか雨が降り出していたようでした。
カラリと晴れたお朔日の朝は、巣鴨駅の方へ散歩に行ってはしなくも吉井先生の『相聞居随筆』を見つけました。発行所へたびたびお百度まで踏んだふた月がかりで待っていた新刊ですから、買って帰るが早いが、貪るように読みはじめました。生田葵山氏の若い時の話、永井先生の「矢筈草」の発端、フリツルンプや凡骨や都川という木下杢太郎氏の詩へ出てくる鳥屋の話など、ことに心を惹かれました。もう読んでいてもクラクラすることもなく、おかげで夕方まで退屈しないで過ごすことができました(ばかりか、たいへん愉しかった)。そうして、ひと風呂浴びて富士市の雑踏の中を、高のところへ訪ねていったという段取りになるのです。
……以上をおしまい近く書き続けていた時、文楽を味わう会の幹事さんたちが三人、お酒持参で見えました。すぐお酒がはじまって文楽君の話やその他の落語家たちの話で他愛なく半日を過ごしました。夜は夜で、大陸へ発つ松平晃君が訪ねて来てくれたりしました。どうやら私の頭もだんだん治っていきそうです。でも、このさい、わざとうんと休むことにして、せいぜい他日を期したいと思っています。いっぺん高とおあそびに。
もう私どもの町々も、新内流しやアコーディオンの流しが毎晩、めっきりと増えて来ました。これが来はじめると、ハッキリ「夏」が感じられるのです。では。
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馬楽供養
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菜種河豚のころに延ばして弥太郎忌 容
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