が向こう側まで掛け渡されていた。平常はそれがピーンと跳ね上げてあり、用のある時だけ下ろす仕組みになっているのだが、しかしながらそれを渡って帰ると滅法近い。で、廓内のもののような顔をして柳朝、
「ヘイお早ようござい、恐れ入りますが、ちょいとあの裏の跳橋を――」
 といちいち下ろさせ、平気な顔をして渡って行った。馬楽はまたその帰りひとッ風呂、朝湯へ飛び込むとそこに預けてある知らない人の石鹸をまるでその人の友だちのようなことを言ってはひとつひとつクンクン嗅ぎまわり、中で一番匂いのよさそうなのを選んではヌケヌケとつかった。
「そういう私も、あの時分は日掛けの金が払えなくって家へ帰れず、本間さんの二階へ転がり込んでいたんですが、ね」
 もう七十幾つになるだろう、思えば元気な左楽老人、つるつるの赤茶けた頭を撫でまわしながら、思い出深げにこう語った。
 ささやかな庭先、春の日がだいぶ傾きかけていた。
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    歳晩日記抄

 十二月二十六日。
 大寒の入りのような厳しい寒さ、風も烈しい。その中を岡本文弥君宅へ行く。先月の女房の発表会以来絶えて久しく会はなかったし、いろいろ来年度の打ち
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