とおたよりもしないでいた先生からは、阪地に病みて久しい三遊亭圓馬(三代目)慰むる会を催したことをよすが[#「よすが」に傍点]に、ゆくりなくもこのほど音信に接することができた。それはつい十日と経たない前の出来事で、古川|緑波《ろっぱ》も徳川夢声も高篤三も、親しい友だちはみな我がことのように欣んでくれた。そうしたことも今この馬楽の歌の三味線に、いっそう私を泣かしめたのだった。ようやくに堪《こら》えてソーッと目を見開いた時、濃茶色の洋服にめっきり老いた三遊亭圓遊も、しきりにハンケチで目頭を拭いていた。私の死んだ時もこれをお経の代わりにやってくださいよ、その時古今亭志ん生はこう言ったっけ。
お墓へ行った。お墓といってもほんとうのお墓は築地の門跡様の寺中にあったのだから、もう無縁で恐らく跡形もなくなっているだろう、三代目小さん・今輔・馬生・文楽・左楽・つばめ・志ん生・燕枝の柳派の人たちで建立した座像のお地蔵様ばかりがここに残っている。その建立した人たちも今ではみな死んでしまって、今日も来てくれている柳亭左楽がわずかに達者でいるばかりである。緋桃《ひとう》が、連翹《れんぎょう》が、※[#「木+虎
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