で七年、月詣りをしているところから馬楽はその五代目の名跡を襲っているところから、ともにこの法会を営んだのだった。馬道に、また富士横町に住んでいた狂馬楽は「註文帖」や「今戸心中」時代の吉原で、寄席へゆかない日夜の大半を生活していた。「夜の雪せめて玉丈《ぎょくだ》けとゞけたい」は、この間の心境を痛切にうたった弥太ッ平馬楽の告白といえよう。すなわちその姿をば文弥君は、三下がりの騒ぎ唄の中に世にもクッキリと描いたのだった。うつらうつらと目を閉じて聞いていた私の目から、騒ぎ唄の弾かれたとたん、急におびただしい涙がはふり落ちてきた。そうして、生ぬるく頬へつたわった。
 明治末から大正初年の、のどかにも、ものしずかだった日の、芸人暮らし。あの日あの頃の、馬道界隈。浅草花川戸で幼時を送った私には、それらがまるで消えかけた祖父母の写真でも見るように、ボーッと瞼にちらついてきたからだった。それにはこの私自身とて、下町から山の手へ、上方へ、小田原へ、また東京へと、いかばかり幾変転の流寓の来し方ではあったことよ。初めて吉井先生の片瀬のお住居を叩いてのことにしてからが、そも幾年月になることだろう。故あって永いこ
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