していこうと精進している。それがまったく当たり前のこととはいいながら、これだけの芸境に達していてなおかつ、この努力、この勉強――。
あえて――あえて言う。他に何人あるか(恐らく志ん生以外にあるまい、大看板では)。
私はそこに傾倒するのだ。
今、圓馬系の噺は、次々と文楽によって伝統正しく伝えられているが、しかも圓馬丸写しにしてはならないと、いしくも悟っているところに、さらに文楽の「非凡」がある。「明日」があるともいえるだろう。
ご承知の圓馬の豪快味に比べる時、文楽の芸質はおよそ軽快にして繊細である。顔も、容姿も、持ち味全体も。
その点、己を知ること厚き文楽は、ひととおり圓馬写しに腐心した噺をも個々の登場人物を地の文のメリハリを、さらに文楽流に養い育てていくべく、それぞれ第二の腐心をあえてしている。すでにそれが成功してしまったものもあり、今だ研究中のものもある。
ゆえに我が文楽の「芸」の冴えは、今後においてこそいよいよ鋭く光芒を放つ楽しみがあるといえよう。同時に「芸は一生の修業」この言葉をこんなにも身をもってマザマザと見せつけてくれる人もまたない。
ひと頃、文楽は巧いけれど
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