勧工場に、永らくかざられてあった活《いき》人形にそっくりだった。まったくあれの再来かと疑われた。それからぴか一の景物は、なんといっても蛸! である。桃色の手拭いであたまをつつんで、それから豆絞りの鉢巻きをして、すててこにあわせて踊る蛸入道は、涙ぐましき見ものであった。今の鶴枝もやるけれど、これだけは、到底、ものがちがう。段がちがう。今の鶴枝のでは、ことに、手のふるわせ具合がはなはだ幼稚でお座がさめる。――だが、あの好々爺の先《せん》の鶴枝がついには気が狂って死んだかと思うと、私は今も耳にのこる、あの一番芸の終わるたびに、なんと思いきりよくぱちんぱちんと叩いてみせた鶴枝のあたまの音さえも、そぞろ無気味にどこからか聞こえてきてならない。
鶴輔からなった今の鶴枝も、しかし、けっして愚昧《ぐまい》でもない。第一、楽に時代と一緒に歩いているところに、先代同様の怜悧《れいり》を感じる。この頃、高座中真っ暗にして紅青いろいろの花火を焚いたりすることも、ますます百まなこ精神からは邪道なわけだが、凝ってあたわざりし思案だとも思えない。この男のでは、仁丹の広告が、時代的で妙に好きだ! 兵隊さんの行軍も先
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