逝《ゆ》いたが、一番惜しい。第一、やまと[#「やまと」に傍点]の晩年は、小圓朝(三遊亭・二代目)より暗かった。まるで看板に名がなかった。せん[#「せん」に傍点]の談志(立川・五代目)で今の金駒(になって、そののち、どうしているか?)も、実に影のうすい二つめ所に堕ちていたが、やまとの方は、金駒の芸とは比べられないだけさらにまた惜しいと思う。ことに近年私は、彼、やまとを愛することより何より強く、せいぜい辻びらの隅っこに小さな彼の名を見つけしだい、追っ駆け追ん廻して歩いたが、ついに一度も聞けなかった。体が悪いというかどで、ただ、楽屋廻りだけしているのだと。これは昔、彼の世話になった今の若い真打たちがせめてもの彼への報恩のためであったらしい。しかし、おかげで私はとうとう最後まで、彼の近影に親しめなかった(最も、そういう内的な、楽屋うちでのやまとは晩年まで恵まれていた。林家正蔵のごとき、やまとのためにのおはな会《よみきり》ならそれこそ万障繰り合わせても出向いていったかの観がある。現に病歿のすぐ以前にも、むつみと協会と合同で、一昼夜にわたる演芸会さえ催した。やまとはそこで才賀なる父の名を襲いで、そ
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