談じた。小さん(柳家・三代目は「小言幸兵衛」だった)をやったのも立花なら、先代助次郎の追善もまれに大阪から圓馬が来ても。――今の馬楽の独演会は決まって、第一日曜で、いつも二十人そこそこの人が、馬楽と一緒に寂しかった!。
両国の立花家は、昼席に川蒸気の笛が烈しく聞こえた。永井荷風の著作を手にした、黒襟の美しい女たちが、どうかすると桟敷に来ていた。――はばかりへ立つ通りみちに、禿げちょろけた鏡が懸かって、「一奴、紋弥、小南」などと、当時でさえもすでに古びた、金字で芸名が書かれてあった。一奴[#「一奴」に傍点]は、今、大阪にいる立花家|花橘《かきつ》。あれも私は、忘れかねる(ついでに言うが、路地を踏んでゆく寄席の味は、まずこの両国の立花だった。それから浅草の並木だった。ことに、雨でもふると、それがよかった。――昼席の記憶は、自分にはないが、二洲の高座もあやしく美しい思い出である。拓榴《ざくろ》口みたいにかかれた牡丹! がらんと空いていて青い瓦斯の灯、表を流しがよく通った)。
薬師の宮松には落語研究会が、しょっちゅう[#「しょっちゅう」に傍点]あった。そこの盆の十六日に、ぎっちり詰まった二
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