仕方がなかった。
 さてもういっぺんいわせて貰おう、さるほどに――。
 ことごとく世は真夏となって、師匠国芳がこの玄冶店の路次々々へ声涼しげにくる心太《ところてん》売を呼び止めては曲突きをさせたそのあと、二杯酢と辛子で合えたやつを肴に、冷やした焼酎を引っかけるのが日々の習いとなってきたころ、次郎吉の腕はいよいよ上がってどうやら近日師匠の代作の三枚続きを仕上げられる迄に至った。
 もちろん芳年、芳幾といっしょにだったが、それにしても、構図は九絞龍と花和尚が瓦灌寺雪の暗闘《だんまり》の大首絵とあっては――。人物風景の大半はほとんどこの兄弟子二人が片づけてしまい、まだ表立って名も貰っていない次郎吉はベトベト胡粉《ごふん》で牡丹雪を降らすばかりだったが、それだけのことでもこの程度の修業年月で引き受けさせられるのは前例のない速さだとされた。天にも昇る心地してさっそく湯島の両親のもとへ報せてやった。
 何よりも母のおすみが喜んだ。
「今度こそお前、あの子も本物になったよ」
 こういっておすみが顔を燦《かがや》かせると、
「ほんにほんに。芸は芸でも絵師ならどんなにか世間体もよいし。でもまあ母上、真実
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