忘れないだろう、師匠国芳が酔余の走り書きになる黒旋風李達が阿修羅のような立姿へ、はじめて藍と朱と墨とを彩ってゆくことができたあの瞬間の晴れがましさよ。何ともいえない恐しさ嬉しさにみっともないほどガタガタ次郎吉は筆が慄えて止まらなかった。にもかかわらず、塗りおえたとき、何にもいわずにきょうも茶碗酒を呷りながらジーッとそれを見ていた師匠は、
「次郎、お前《めえ》、筋がいい」
酒で真っ赤にした目をパチパチさせながら、簡単にただこれだけいってくれた。
ハッと次郎吉はまた身が竦んだ。思わず鼻の筋が弛んで、キーンと泣けそうになってきた。
「オイお前《めえ》うち[#「うち」に傍点]の師匠が賞めるなんて滅多にねえんだ、忘れるなよ」
どやしつけるように背中を叩いて芳年がいった。
「ほんとに勉強しておくれよ次郎さん」
笑顔でやさしく芳幾もいってくれた。
「やり……やりますよ……」
いよいよ泣けそうになってくるのに一生懸命次郎吉は耐えた。耐えていた。でもやっぱり次第々々にこみ上げてくるものがあって、目の前いっぱいに仁王立ちしている活けるがごとき黒旋風李達の、ボーッと淡《うす》れていってしまうことが
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