ロドロンとすぐ八百春の後のほうで鳴りはじめた。つづいて大太鼓小太鼓入りみだれて賑やかに二番太鼓が囃《はや》されてきた。
「親方あれは」
慈姑《くわい》の泥を洗っていた手をやめて次郎吉は訊ねた。
「ウム。裏の牡丹亭って貸席だ。ときどき三日か五日、チャチな寄席に早替りする。今夜は何か素人の落語家がかかるらしい」
神棚へお燈明を上げていた親方が後向きのまんま、いった。そういううちも、四《し》丁目の三味線太鼓|早間《はやま》に賑々しく地囃子が、水銀《みずがね》いろをした暮春の夕闇をかき乱すように聞こえてくる。
「……」
呼吸を奪われてしまいそうな物恋しさだった。物悲しさだった、甘い寄りどころない遣瀬《やるせ》なさでもまたあった。烈しくそれは次郎吉の五体を揺ってきた。否、五体の隅々果て果てまでを、切なく悩ましく揺り動かしてきた。極度のやる方なさに苛《さいな》まれながら、しかも一面そこには不思議と恍惚たる快感が伴われていた。泣きじゃくりながら、シッカリ抱擁し合っている恋びと同士――それにも似ているかもしれなかった、あたかもこのいまの心持は。
絶えて久しい心のふるさと寄席への郷愁――全身全魂
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