が、まるで南蛮渡りの秘薬の匂いでも嗅がされたよう、うれしく、悲しく、ただぼんやりと憑かれたように媚《しび》れてきてしまっていた。
「……」
 ボーッと夢見心地に包まれながら次郎吉は、そのままフラフラフラフラ薄闇の彼方へ迷いでていった。夢中で黒塀について曲った。
「シャーイ……シャーイ……」
 赤と青と提灯の灯が揺れ、拙《つたな》い字で天狗連らしいちぐはぐ[#「ちぐはぐ」に傍点]な落語家の名前が、汚れた庵《いおり》看板の中にでかでか[#「でかでか」に傍点]と書かれてあった。まだお客は一人もつっかけていないらしかった。
 でも提灯の灯も庵の中の芸人の名前も何にも次郎吉には見えなかった。ただシャーイシャーイというあの聞き馴れた声ばかりが大きくなつかしく聞こえてきた。恋びとの声にも似て、それはキューッと胸許を嬉しく苦しく掻きみだし、また締めつけてきた。
「……」
 黙ってスーッと入っていった。そのまんま正面にひろがっている大きな段梯子をカタカタ上がっていこうとした。
「オ、オイ兄《あん》ちゃん下駄々々、下駄ッたら、困るよ兄《あん》ちゃん、そんな下駄のまんまで上がられちゃ」
 背中からけたたまし
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