の雁が先になったら笄《こうがい》取らしょ……、小さいときから大好きなこの唄を誦もうともしなかった。
「……」
 いっそう目は雁の列とは反対の上野の御山のその先のほうへ、ジッと、ジィーッと注がれていったその辺りいっときは夕闇が濃く、広小路辺りの繁昌だろう、赤ちゃけた燈火の反射がボーッと人恋しく夜空へ映って流れていた。
「……」
 ためつ、すがめつ。そういった感じで次郎吉は、その明るみを見つめていた。なつかしくてなつかしくてたまらない風情だった。
「……」
 夜目にもだんだんその目が曇ってきた。フーッと深い溜息を吐いた。そうしていった。
「……あの赤く見える下に寄席があるんだ、吹抜亭が……」
 銭湯の柘榴口《ざくろぐち》のような構えをした吹抜亭の表作りがなつかしく目に見えてきた。愛嬌のある円顔をテラテラ百目蝋燭の灯に光らせて、性急《せっかち》そうに歌っている父橘家圓太郎の高座姿がアリアリと目に見えてきた、いや、下座《げざ》のおたつ婆さんの凜と張りのある三味線の音締《ねじめ》までをそのときハッキリと次郎吉は耳に聴いた。
「出てえ……やっぱり俺《おいら》、寄席へ出て落語家《はなしか》がやってて
前へ 次へ
全268ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
正岡 容 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング