つべん》の声《こわ》いろが、あとから耳許へ聞こえてきた、木の葉の合方、山嵐や谺の鳴物も聞こえてきた、扇で半面隠して一生懸命声張り上げている小勝《こかつ》師匠の高座姿さえマザマザとして見えてきたのだった。
 グオーン。
 そのとき遠くの位牌堂のほうへ行く道で、誰かが鐘を鳴らしていった。それすら時にとっての本釣りと聞こえた。
「紀の国屋」
 思わずこういってしまって、ギョッと口を押さえた。あわてて辺りを見廻した。幸い、誰もいなかった。急いで次のお経へかかった。
「一切の苦厄をだしたまう、舎利子、色《しき》は空《くう》に異らず、空は色に異らず、色|即《すなわ》ち是れ空、空即ち是れ色、受想行識《じゅそうぎょうしき》もまた是の如し」
 ここのところはトントンといった。ことさらに連想さそわれるものがなかったからだった。でも、そのあとがまた、続けざまにいけなかった。
「生せず、滅せず、垢つかず浄《きよ》からず、増さず減らず」
 というところへきて、このごろ世間で時花《はや》っている阿呆陀羅経のないものづくしの真似をする蝶丸爺さんのあざらし[#「あざらし」に傍点]のような顔を次郎吉は思いだした。危うく
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