た。
「……」
 昨夜みんなのあとへつづいてしどろもどろに誦んだ般若心経を、早く覚え込んでしまわなければならない。
「エヘン」
 誰にともなく咳払いした。そうして目の前のお経文へと目をやった。
「観自……観自……在菩薩」
 読みかけてまた、
「観自……観自……観自観自」
 あとの観自は、ことさらに二つ重ねていった。
 かんじ……かんじ……観自ではなく、かん治。宗十頭巾に十徳《じっとく》姿、顎鬚《あごひげ》白い、好々爺《こうこうや》然とした落語家《はなしか》仲間のお稽古番、桂《かつら》かん治爺さんの姿が、ヒョロヒョロと目の前に見えてきた。
「いけない」
 あわてて次郎吉は、首を振った。俗念を払おうとしたのだった。
「観自在菩薩、深般若波羅蜜多を行《ぎょう》ずる時、五薀《ごうん》皆空《かいくう》なりと照見して……」
 急いでここまで読み下して、素早くさらに次の言葉へと読み移った。
「一切の……一切の苦厄……苦厄……」
 九百九十の寺々に、きのう剃ったも今道心……苦厄という言葉がそのまま九百へ連想を走らせてきた。おととい剃ったも今道心、ただ道心では分り申さぬ、と同時にこんな張りのある訥弁《と
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