「この蜆《しじみ》、壁で死ぬとはおもうまい」って。
あの時分は何の気なしに聞き流していたけれど、今になると思い当るいい句だ、たしかに。
「壁で死ぬとはおもうまい」か。
その通り、その通り。
とするとこの俺《おいら》はさしずめ蜆か。
ウム、いかにも俺、小《ち》っこくて江戸前だから、業平《なりひら》蜆ってところだろう。
……ふッといま次郎吉の心に、青々と水美しくこがれている業平あたりの春景色が、広重えがく江戸名所絵のよう蘇ってきた。
早春の空あくまで青く、若草萌えている土手の下、そこにもここにも目笊《めざる》片手の蜆取りの姿が世にも鮮やかに見えてきた。
臥龍梅から小村井かけて、土手ゆく梅見客も三々五々と目をよぎった。どの男も、どの女もみんな瓢箪を首にかけ、ホンノリ頬を染めていた。
……しかもその景色は、こうした寺方の墨一色の世界とは比ぶべくもなく多幸な多彩なこの世ながらの大歓楽境のようおもわれないわけにはゆかなかった。いまの環境がいっそう何とも彼とも取り返しの付かないもののよう、世にもクサクサと考えられてきた。
ああ俺のような江戸前の生一本の業平蜆が、こんな抹香《まっこ
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