三杯のすむ長い間、何ひと言和尚様は語りだされるでもなかった。すべてはただ黙々とした中に終始された。ほろ酔で阿父さんが木やりくずしか何か歌いだす我家の食膳が、そこに満ち漲る愉しい温い雰囲気がつくづくと次郎吉は恋しかった。しらぬ他国にいる寂しさにしんしんと身内の冷え返ることを感じた。
 やっとお食事がおわると、
(もう片づけて)
 という風に目で前のお膳を指された。
 待っていましたとばかり、ピョコッとまたお辞儀をして立ち上がると、次郎吉は立ちのまま両手でお膳を持ってさっさと引き下がってきてしまった。
 それからやっと自分たちの食事になった。
 こちらは濛々と大きなお鍋から湯気が立って、傍目《はため》にはひどく美味しそうだったが、取柄といえば温いばかり。今夜も下らなく仇辛いお雑炊だった。
 お菜はひね[#「ひね」に傍点]沢庵が三切れずつ。
 でも次郎吉を除く皆はフーフー吹きながら、幾杯もお代りをしては啜り込んでいた。幾度かジロリジロリこちらを睨むようにしている義兄の目を感じながらも次郎吉は、どうしてもたべることができなかった。
 二杯――やっとの思いで二杯だけたべた。
 それから火の気のない本堂へ坐って、永いこと皆とお経を誦んだ。
 観自在菩薩、深般若波羅蜜多《じんはんにゃはらみった》……。
 般若心経だった。霜夜の往来に立ちつくしているようキーンキーンと痛く膝頭を凍らせながら次郎吉も、皆のあとへ従いてそのお経をモグモグ口の中で誦んだ。あまりの寒さが、風花《かざはな》落ちかかる夜更けの街から街を慄えていく寒念仏の辛い境涯が、そのまましきりにいま自分の上にあてはめて考えられてきた。いつかお経は上の空になった。そのとき皆のお経の声がひとしお耳許でグワッと波打って高まってきて、ポトンと絶えた。おしまいだった。
 そうしてやっと各自が寝間へ引き取るのだった。次郎吉は役僧たちの寝る部屋が一杯だからとて、庫裏の脇の長四畳のようなところへ寝かされた。
 冷たいゴツゴツした夜具蒲団。
 枕許で惨めに一本、燈芯の灯が薄青く揺れていた。
 ……何だろうあの和尚様のお菜ッたら。
 いよいよ募ってきた夜更けの寒さにガタガタ身体中を慄わせながら床の中で次郎吉は、しきりに最前の和尚様の食事のことを情なく思い返していた。
 ふた品ほどの皿の上――ひとつは真黒い粒々でもうひとつは茶っぽいドロッとしたものだった。
 浜納豆に金山寺味噌、たしかにそうと次郎吉は睨んだ。
 どちらも美味しくない、およそ次郎吉の虫の好かないたべものだった。しかもここへきてもう三晩、たいてい毎晩和尚様はあのお菜だった。
 他人事《ひとごと》ながらあんなお菜ばかりたべていなければならない和尚様が気の毒で気の毒で仕方がなかった。
 でも……。
 和尚様よりこの俺たちのお菜ときたら、またもっとひでえや。
 最前の仇辛い雑炊の舌ざわりを、悲しく次郎吉は舌の上へ喚《よ》び戻していた。何とも彼ともつきあい切れない味だった。味も素ッ気もないとよくいうけれど、まだそのほうがいい、味のあるだけいっそう情ない代物だった。
 ほんとに何て雑炊なんだろう、ありゃ。
 阿父さんがよく宿酔《ふつかよい》のとき、深川茶漬といって浅蜊のおじやみたいなものをこしらえ、その上へパラリと浅草海苔をふりかけたのをよくお相伴させて貰った。けれどあれとこれとじゃうんてんばんてん[#「うんてんばんてん」に傍点]の違いがあらあ。
 ひでえにもひどくねえにも、よく仲間がやる落語に「万金丹《まんきんたん》」てのがあって、道に迷った江戸っ子二人、山寺へ一夜の宿を借りると、世にも奇妙な味の雑炊をたべさせられる。
 しかもときどき舌へ絡みつくものがあるので、
「何ですこれは」
 と和尚様に訊くと、
「藁だよそれは」
「エ、藁?」
「ウム」
 ニッコリと和尚様は笑って、
「お前その藁をたべるとお腹ン中がよく暖まる」
「壁じゃあるめえし」
 というくすぐり[#「くすぐり」に傍点]がある。
 何のことはない、その藁入りの雑炊もかくやとばかりのここのお寺の雑炊だ。
 とすると俺たちもおっつけ壁になる口か。
 いや、なるかもしれない。
 ほんとに――ほんとにこんなお寺の生活《くらし》なんて、しんからしんじつつまらなくって、壁も壁も大壁みたようなものだろう。そうしてこの自分もまた、次第にその大壁の中へ塗りこめられていく一人となるのだろう。
 そう、まさにそれに違いない。
 ……そのように考えたとき次郎吉は、にわかに父圓太郎がよく高座でつかう十七文字がゆくりなくもおもいだされてきた。
 エーエーとあれは、む、む……む……そうだ、「武玉川《むたまがわ》」だ、たしかそういう発句の本だっけ、その中の句を引事《ひきごと》にしちゃ、阿父《おとっ》さんこういったんだっけ、
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