小説 圓朝
正岡容
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)行燈《あんど》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)八十八|阪《さか》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#歌記号、1−3−28]
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序
夕月淡く柳がくれの招き行燈《あんど》に飛ぶ禽《とり》落とす三遊亭圓朝が一枚看板、八丁荒しの大御所とて、焉《いずく》んぞ沙弥《しゃみ》より長老たり得べけむや。あわれ年少未熟の日の、八十八|阪《さか》九十九折《つづらおれ》、木の根|岩角《いわかど》躓き倒れ、傷つきてはまた起《た》ち上がり、起《た》ち上がりてはまた傷つき、倦《う》まず弛《たゆ》まず泣血辛酸《きゅうけつしんさん》、かくして玉の緒も絶え絶えに、出世の大本城へは辿り着きしものなるべし。即ち作者は圓朝若き日のそが悶々の姿をば、些《いささ》か写し出さむと試みたりけり。拙筆、果たしてよくその大任を為し了《おわ》せたるや否や。看官《みるひと》、深く咎め給わざらむことを。
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梨の花青し 圓朝の墓どころ
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[#地から1字上げ][#ここから割り注]昭和癸未睦月下浣[#改行]於 巣鴨烟花街龍安居[#ここで割り注終わり] 作者
[#改丁]
[#ここから5字下げ、ページの左右中央に]
第一話 初一念
[#ここで字下げ終わり]
[#改丁]
一
「……」
クリッとした利巧そうな目で小圓太の次郎吉は、縹《はなだ》いろに暮れようとしている十一月の夕空の一角を悲し気に見つめていた。
「……」
目の上一杯にひろがっている夕空がみるみる言葉どおりの釣瓶《つるべ》落としに暮れいろを深めそめ、ヒューヒュー音立ててそこら堆い萩の枯葉を動かしてはしきりと次郎吉の身体全体を吹き抜けていく夕風も、はや夜風といいたいほどの肌寒さを加えてきていたが、懐手《ふところで》をしたまんまその目を動かせようともしなかった。まるで凝結したように佇んでいた。
「……」
だしぬけに向こうの上野の御山の方から、北へ北へと鳴きつれてゆく薄墨いろの雁の列があったが、一瞬チラと目をくれただけで次郎吉は、※[#歌記号、1−3−28]あとの雁が先になったら笄《こうがい》取らしょ……、小さいときから大好きなこの唄を誦もうともしなかった。
「……」
いっそう目は雁の列とは反対の上野の御山のその先のほうへ、ジッと、ジィーッと注がれていったその辺りいっときは夕闇が濃く、広小路辺りの繁昌だろう、赤ちゃけた燈火の反射がボーッと人恋しく夜空へ映って流れていた。
「……」
ためつ、すがめつ。そういった感じで次郎吉は、その明るみを見つめていた。なつかしくてなつかしくてたまらない風情だった。
「……」
夜目にもだんだんその目が曇ってきた。フーッと深い溜息を吐いた。そうしていった。
「……あの赤く見える下に寄席があるんだ、吹抜亭が……」
銭湯の柘榴口《ざくろぐち》のような構えをした吹抜亭の表作りがなつかしく目に見えてきた。愛嬌のある円顔をテラテラ百目蝋燭の灯に光らせて、性急《せっかち》そうに歌っている父橘家圓太郎の高座姿がアリアリと目に見えてきた、いや、下座《げざ》のおたつ婆さんの凜と張りのある三味線の音締《ねじめ》までをそのときハッキリと次郎吉は耳に聴いた。
「出てえ……やっぱり俺《おいら》、寄席へ出て落語家《はなしか》がやっててえ」
何ともいえない郷愁に似たものがヒシヒシ十重二十重《とえはたえ》に自分の心の周りを取り巻いてきた。ポトリ涙が目のふちに光った。
と、見る間にあとからあとから大粒の涙はポトポトポトポト溢れてきた。
頬へ、条《すじ》して光って流れた。
「……俺、俺……」
とうとう次郎吉は洗いざらしたつんつるてん[#「つんつるてん」に傍点]の紺絣《こんがすり》の袖を目へ押し当てて、ヒイヒイヒイヒイ泣きじゃくりだした。
……そのころ日暮らしの里と呼ばれた日暮里はずれ、南泉寺という古寺の庭。
次郎吉は始めにもいったよう、芸名、小圓太。
音曲噺《おんぎょくばなし》の上手、橘家圓太郎の忰として七つの年に初高座の、それから十四の今年まで、しょせんが好きで遊び半分の出たり出なかったりの勝手勤めではあったけれど、とにかく、正味五年にはなる高座暮らしをしてきたのだった。
それがなんと晴天の霹靂《へきれき》。
二、三日前、急に高座から引き摺り下ろされて、繁華な湯島切通しの自宅から場末も場末、こんな狐狸の棲む日暮里の南泉寺なんて荒寺の小僧にされてしまったのだ。
この寺の役僧をしている腹違いの兄玄正が闇雲
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