に反対して芸人を止めさせ、自分の手許へ引き取ってきてしまったからだった。
もちろん次郎吉の小圓太はいや[#「いや」に傍点]だといった、槍ひと筋の家に生い立ちながら好んで落語家の仲間へ身を投じた父の圓太郎も決して廃めさせたがらなかった、むしろ本人が好きな道ならましぐら[#「ましぐら」に傍点]にその道をこそ歩かせたがった。
が、夫圓太郎の寄席芸人となったことすらいやでいやで耐《たま》らなかった女房のおすみは、何といっても聞かなかった。青戸の在の左官の妹でありながらおすみは、圓太郎とは比べものにも何にもならないほど凜とした気質《きだて》のおんなだった。ここぞとばかり玄正の説に賛成して、次郎吉の小圓太を廃めさせようとかかった。
そのころの芸人の常とはいえ、しょっちゅう[#「しょっちゅう」に傍点]道楽をしてはその後始末ばかりさせているおすみの前、何としても圓太郎は頭が上がらなかった。
「道楽者は阿父《おとっ》さん一人でたくさん」
こうキッパリといわれると一言もなかった。
それには自分と一緒になる前、おすみが深川のほうの糸屋へ嫁《かたず》いていて生んだ子の玄正にも、いい年をしててんで[#「てんで」に傍点]圓太郎は口が利けなかった。全体どこにも武家出らしいところのない、それ故にこそ、またかくも音曲師として世間から迎えられてしまったのだろう圓太郎は、武家とか出家とかそうした堅苦しい商売の者との応待が、この世の中で一番苦手だった。町役人という名のあるだけに、家主と口を利くのも窮屈千万でならなかった。従って仮にも義理の親子であるのに、いつも玄正とさし[#「さし」に傍点]で話すたんび、店賃《たなちん》の借りのある大屋さんの前へ出た熊さん八さんでもあるかのよう、わけもなく圓太郎は玄正に対し、ヘイコラしてしまうのが常だった。
さて今度その二人から膝詰で、小圓太の次郎吉を高座から退かせろと談じ付けられたのだった。
ウンもスーもなかった、世にもだらしなく呆気なくもの[#「もの」に傍点]の見事に承諾するのやむなきに至らされてしまって、即ち次郎吉はその日のうちに落語家を廃めさせられ、この日暮里南泉寺の兄玄正の手許へと連れてこられてしまったのだったが……。
「……つまんねえなあ俺」
もうとっぷりと暮れつくしてしまったそこら中を、やっと涙の顔を上げて見廻すと、世にも悲し気に呟いた。
見れば、暗い本堂のほうには微かに寒々とした燈火《ともしび》のいろが動いている。それが破れ障子へ、ションボリ狐いろの光りを投げかけている。
……いまのいま瞼に浮かんだ父圓太郎の頬照らす吹抜亭の高座の灯のいろとは似ても似つかぬ侘びしさだった。
ボーン……ボーン……。
どこか、ほかのお寺からだろう、梵鐘の音が闇を慄わして伝わってきた。いおうならこの鐘の音いろも、芝居噺のせりふのとき新内流しの合方にまじって楽屋で鳴らされる銅鑼の音とは比べものにもならないほど野暮でつまらなかった。第一、いってみればそこには活きた人間の情や心持というものを滲ませている何物もなかった。てんで[#「てんで」に傍点]次郎吉には必要のなさ過ぎる冷静で峻厳な世界の「音」ばかり「声」ばかりだった。
「……けッ……」
ただ「けッ」とのみいいたかった、ほんとうにいま次郎吉は。
二
いつ迄、暗闇の中に愚図々々してもいられないので渋々庫裏のほうへ取ってかえすと、ちょうど庭下駄を突っかけて義兄《あに》の玄正が自分を探しにでようとしているところだった。薄ら明りの中に半面|影隈《かげやま》取られて冷たく浮き出している尖った義兄の顔は、自分たちとは全く世界を異にしている人々だけの持つ厳しさだった。毎度々々のことながら取っ付けないものをそこに感じた。
「和尚様御食事じゃ。サ、早う給仕」
そう冷淡に(と次郎吉にはおもわれた)いい捨てて踵を返すと、侘びしい灯の流れているほうへ、真黒い衣を鋭くひるがえしながらとつかは[#「とつかは」に傍点]と消えていってしまった。
時分時だというけれど、自分たちの住んでいた町家《まちや》のようにお汁《つゆ》の匂いひとつただよってくるでもない。それも次郎吉には侘びしかった。
急いで和尚様のお居間へ入っていくと、もう誰かが運んできたのだろう、つつましくふた品ほどのお菜《かず》をのせた渋いろの塗膳を前に、角張った顔を貧血させて和尚様は、キチンと手を膝の上に、控えておられた。
「あいすみませんおそくなりまして……」
ちっとも小坊主らしくない軽いちょく[#「ちょく」に傍点]な調子でいいながら、ピョコッと次郎吉はお辞儀した。
「……」
黙って和尚様はところどころヒビの入っている大きなお茶碗をヌイと差し出された。
……少しずつよそってそれを長い長いことかかって三杯。でもその
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