「この蜆《しじみ》、壁で死ぬとはおもうまい」って。
あの時分は何の気なしに聞き流していたけれど、今になると思い当るいい句だ、たしかに。
「壁で死ぬとはおもうまい」か。
その通り、その通り。
とするとこの俺《おいら》はさしずめ蜆か。
ウム、いかにも俺、小《ち》っこくて江戸前だから、業平《なりひら》蜆ってところだろう。
……ふッといま次郎吉の心に、青々と水美しくこがれている業平あたりの春景色が、広重えがく江戸名所絵のよう蘇ってきた。
早春の空あくまで青く、若草萌えている土手の下、そこにもここにも目笊《めざる》片手の蜆取りの姿が世にも鮮やかに見えてきた。
臥龍梅から小村井かけて、土手ゆく梅見客も三々五々と目をよぎった。どの男も、どの女もみんな瓢箪を首にかけ、ホンノリ頬を染めていた。
……しかもその景色は、こうした寺方の墨一色の世界とは比ぶべくもなく多幸な多彩なこの世ながらの大歓楽境のようおもわれないわけにはゆかなかった。いまの環境がいっそう何とも彼とも取り返しの付かないもののよう、世にもクサクサと考えられてきた。
ああ俺のような江戸前の生一本の業平蜆が、こんな抹香《まっこう》臭い荒寺の壁の中で死んでしまうなんて。
いやだ……いやだ……俺いやだ……いやだったらや[#「や」に傍点]だや[#「や」に傍点]だや[#「や」に傍点]だ。
まるで手籠めにでもなるのを阻《はば》むもののように床の中で次郎吉は、必死になって身悶えした。バタバタ手足を振り動かした。いつ迄もいつ迄も繰り返した。繰り返してはまた繰り返していた。
でも……。
泣き寝入りに寝入ってしまうとよくいうけれどさすがに昼の疲れがでてきたのだろう、やがてグッタリその手足も動かなくなると、間もなく魘《うな》されているような荒い鼾をかきはじめた。いやことによると鼾ではなくほんとうに魘されていたのかもしれない。もう消え消えな燈芯の灯の中に浮きだしている次郎吉の額へは、可哀《かあい》や物の怪にでも憑《つ》かれたかのようにベットリ脂汗が滲みだしてきていた。
……。
三
翌朝。
晴れているのに少しも日のさし込んでこないガランとした冷たい本堂の真っ只中に、次郎吉はたったひとり坐らされていた。
お経文の稽古だった。
庭先のほうの明るく晴れて見えるだけ、いっそう身の周りの一切が寒々と凍えていた。
「……」
昨夜みんなのあとへつづいてしどろもどろに誦んだ般若心経を、早く覚え込んでしまわなければならない。
「エヘン」
誰にともなく咳払いした。そうして目の前のお経文へと目をやった。
「観自……観自……在菩薩」
読みかけてまた、
「観自……観自……観自観自」
あとの観自は、ことさらに二つ重ねていった。
かんじ……かんじ……観自ではなく、かん治。宗十頭巾に十徳《じっとく》姿、顎鬚《あごひげ》白い、好々爺《こうこうや》然とした落語家《はなしか》仲間のお稽古番、桂《かつら》かん治爺さんの姿が、ヒョロヒョロと目の前に見えてきた。
「いけない」
あわてて次郎吉は、首を振った。俗念を払おうとしたのだった。
「観自在菩薩、深般若波羅蜜多を行《ぎょう》ずる時、五薀《ごうん》皆空《かいくう》なりと照見して……」
急いでここまで読み下して、素早くさらに次の言葉へと読み移った。
「一切の……一切の苦厄……苦厄……」
九百九十の寺々に、きのう剃ったも今道心……苦厄という言葉がそのまま九百へ連想を走らせてきた。おととい剃ったも今道心、ただ道心では分り申さぬ、と同時にこんな張りのある訥弁《とつべん》の声《こわ》いろが、あとから耳許へ聞こえてきた、木の葉の合方、山嵐や谺の鳴物も聞こえてきた、扇で半面隠して一生懸命声張り上げている小勝《こかつ》師匠の高座姿さえマザマザとして見えてきたのだった。
グオーン。
そのとき遠くの位牌堂のほうへ行く道で、誰かが鐘を鳴らしていった。それすら時にとっての本釣りと聞こえた。
「紀の国屋」
思わずこういってしまって、ギョッと口を押さえた。あわてて辺りを見廻した。幸い、誰もいなかった。急いで次のお経へかかった。
「一切の苦厄をだしたまう、舎利子、色《しき》は空《くう》に異らず、空は色に異らず、色|即《すなわ》ち是れ空、空即ち是れ色、受想行識《じゅそうぎょうしき》もまた是の如し」
ここのところはトントンといった。ことさらに連想さそわれるものがなかったからだった。でも、そのあとがまた、続けざまにいけなかった。
「生せず、滅せず、垢つかず浄《きよ》からず、増さず減らず」
というところへきて、このごろ世間で時花《はや》っている阿呆陀羅経のないものづくしの真似をする蝶丸爺さんのあざらし[#「あざらし」に傍点]のような顔を次郎吉は思いだした。危うく
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