「坊主に簪《かんざし》さし場がない、畑に蛤掘ってもない」と傍らの小木魚叩いて歌いだしてしまうところだった。
「真耳鼻舌身意《けんにびぜつしんい》も無く、色馨香味触法《しきしょうこうみそくほう》も無く、眼界《げんかい》も無く、乃至《ないし》、意識界も無く、無明《むみょう》も無く、また無明の尽くることもなく……」
 いけない、いよいよないものづくし、だ。
「乃至《ないし》老死《ろうし》も無く、また老死の尽くることも無く、苦集滅道《くしゅうめつどう》もなく、智も無く、また得《とく》も無し、所得無きを以ての故に」
 どうしてこう逆らってちょぼくれ仕立になってくるんだろう。このお経の文句はますます、小木魚が叩きたいよ。
「……菩提薩※[#「土へん+垂」、第3水準1−15−51]《ぼだいさった》、般若波羅蜜多に依るが故に、心《しん》※[#「罘」の「不」に代えて「圭」、第4水準2−84−77]礙《けげ》無し、※[#「罘」の「不」に代えて「圭」、第4水準2−84−77]礙無きが故に、恐怖《くふ》有ること無し」
 うわーッ、な、何てだだら長いないものづくし[#「ないものづくし」に傍点]だ。音を上げて次郎吉は経文を伏せてしまった。妄念を払うがごとく、欄間を見た。
 張りめぐらされている赤地錦へ、蜿々として金龍が一匹|蟠《わだかま》り、それが朝風に戦《おのの》いていた。
「……」
 その唐風の暖簾《のれん》のようなものの一番端に、吹抜亭さんへ、ひいきより――という文字を、アリアリと幻に見た。
「いけない」
 ハッと次郎吉は眼を閉じた。
 やがて、ひらいた。
 目を逸らすように天井を見た。
 貧乏寺でもさすがにこればかりは金色《こんじき》燦爛《さんらん》とした天蓋が、大藤の花の垂るるがごとく咲き垂れていた。
 その天蓋に、今度は高座の上から吊されているあの八間《はちけん》の灯を感じた。
 いけない。
 またまた次郎吉はしばらく目を閉じた。
 そして、ひらいた。
 慈愛を含《こ》めている正面の阿弥陀さまのお姿が、その左右のあかあかと燃えている大蝋燭が、次郎吉のようなお寺嫌いのものにも目に入ってきた。
「観自在菩薩、深般若波羅蜜多……」
 ここぞとお経文に頼ろうとした。
 ……が甲斐なかった、二本の大蝋燭はたちまち高座のそれにそっくり見え、もったいないが鎮座まします阿弥陀さまは、親父の圓太郎が師匠の二代目三遊亭圓生の身振りうれしき芝居噺の画面の姿を髣髴《ほうふつ》と目に躍らした。親玉ァとさえ、また叫びたかった。
「なんまいだぶなんまいだぶなんまいだぶなんまいだぶなんまいだぶ」
 あまりのことに自分が情なくなってきて次郎吉は、急にカラリと明るい調子でお念仏を唱えだした。あとからあとから尽くるところなく唱えだしたのだった。
「……」
 たまたま廊下を、義兄玄正が通り合わせた。
 覚えろといった般若心経ではないけれど、心を空の念仏三昧。ではやっと落語家たることをあきらめてくれたか。
 秋の霜のような烈しい顔をそっと綻ばして喜ばしさに通りもやれず玄正は、そのまま廊下に立ち停まって耳傾けていた。
「なんまいだなんまいだなんまいだなんまいだなんまいだなんまいだなんまいだなんまいだなんまいだなんまいだ」
 明るいお念仏の声は、いつ迄もいつ迄もつづいた。果てしなくつづいていった。
 とおもううち、
「……おい婆さん、飯が焦げるよなんまいだぶなんまいだぶなんまいだぶ」
 いきなり次郎吉は爺臭い声をだして、
「おい誰だい赤ん坊を泣かすのは……うるさくっていけねえ、気を付けろよなんまいだぶなんまいだぶなんまいだぶ、アオーイ鰌屋《どじょうや》、いくらだ一升、ウ、高《たけ》え高え負けろ、もう二文負けろィ、あれ因業《いんごう》だな、ヤイ負けねえとぶンなぐるぞ、ア負けたか感心なんまいだぶなんまいだぶ、オイ婆さん、早く笊を出してやんな、なんまいだぶなんまいだぶなんまいだぶ、何、因業な割には安い鰌屋だって、ウ、そいつァよかった、じゃすぐお味噌汁《みおつけ》の中へ入れちまいねえ、なんまいだぶなんまいだぶなんまいだぶなんまいだぶ、どうだ入れたか皆、なんまいだぶなんまいだぶどんな具合だよ鰌は、なんまいだぶなんまいだぶ、鰌、皆白い腹だして死んじまったって、態《ざま》ァ見やがれ、なんまいだぶなんまいだぶ……って。これじゃ何にもなりやしません」
 ここまでトントンとひと呼吸に喋ってきて始めてホッと我に返ったように、
「ヘイお馴染の小言念仏、ちょうどおあとがよろし……」
 いいながら何気なく見た廊下には、
「ア!」
 さながら入道雲のよう渋面つくった義兄玄正がニュニューッと一杯に立ちはだかっていた。
「い、い、いけ……」
 このまま心臓の鼓動が止まってしまうかとばかり次郎吉はおどろいた。目を白黒した。
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