口をモグモグした。法返しが付かないてのはこのことだろう、自分で自分のからだ[#「からだ」に傍点]のどこに何がどうあるか分らないほどだった。夢中でいたり立ったり坐ったりしていたが、やっぱりいつ迄もいつ迄もジーッと立ちはだかったまま睨み付けている義兄の手前何とも型《かたち》がつかなくなると、てれ[#「てれ」に傍点]かくしにまた取って付けたような声音《こわね》で、
「観自……観自……観自在菩薩」
「い、いい加減にしろ」
堪り兼ねて玄正が、ピューッと握り拳固めて、荒々しく飛び込んできた。その握り拳が、次郎吉には大きいとも何とも畳半畳敷くらいに見えた。
「ご、ごめんなさい」
まだ撲られないうちに次郎吉は目を廻していた。
四
その日のうちにかえされて、それから四、五日家にいると、今度は根津のほうの石屋へ奉公にやられた。
これは親方も江戸っ子なら、お神さんはすぐ近所の根津の中店《ちゅうみせ》にいた人だとかで、家中物分りがよかった。やはり江戸っ子で深川の生まれとか人の好さそうな兄弟子が一人いた。
お寺よりかいい。
きた当座、心から次郎吉はそうおもった。
御主人夫婦の鉄火だったこともかえって自分には親しめたし、お菜もたとい塩鮭半分でも壁になりそうなお雑炊のことをおもえば、千両だった。
つい七日い、十日いた。
「次郎吉。歳暮に廻ってくる、俺とおッ嬶《かあ》と手分けして」
しぐれそうな日の午後、他所行《よそゆき》に着替えた御主人がにこやかにいった。後にお神さんも一帳羅を着てめかしていた。
「秀は秀で石燈籠のことで万定さんへいま伺わせるからお前、ひとりで留守番をしてな、いいか」
「ヘイ」
コクリと次郎吉は肯いた。秀とは、兄弟子のことだった。これも早いところ仕度をして、番傘片手に裏口のほうからでてきて待っていた。
「じゃ頼んだぜ、店を」
「お願いするよ」
「じゃオイ、いって」
主人夫婦と兄弟子とは店をでるとすぐ三方へ、ばらばらに別れていってしまった。
あぐねたような曇り日の下《もと》、次第に三人の姿のそれぞれにそれぞれの方角で小さくなってゆくおもての景色を、ボンヤリ上り框《かまち》へ腰を掛けて次郎吉は見送っていた。どこか遠くから景勝《かんかち》団子の太鼓の音が聞こえてきて、すぐやんでしまった。
そうだ。ひとつこの間に稽古してみよう。
親方から石の刻み方のいろはのいの字を、昨日、教わり立てのホヤホヤだった。
冷え冷えとした匂いのする店の間へきて小さな槌を取り上げると次郎吉は、土間にころがっている手ごろな石の破片《かけら》を膝に、カチカチカチンとでたらめに刻みだした。もちろん、おもうようにはゆくわけがない、自分でこれが自分の手かと疑えるほどまるでいうことをきかなかった。そういっても下らなくなるほど、槌握った手が不器用にひとつところばかりをどうどうめぐりしていた。
カチカチカチン。
カチカチカチカチン。
でもしばらく繰り返してやっているうち、だんだんその槌打つ拍子にある種の調子が加わりだした。
カチ、カカカカ、カチン。
カ、カ、カ、カチン。
カチカチカチカチン……。
しかも、それは何か、どこかでたしかにいくたびか聞いたことのある、節面白い調子だった。
カ、カ、カ、カ、カチン。
カチカチカチンチン……ときた。
さらに何べんも繰り返しているうち、
ア、アー、そうか――
はじめて次郎吉は肯いた。破顔一笑せずにはいられなかった。
広小路の本牧亭《ほんもくてい》や神田の小柳や今川橋の染川で、親爺に連れていって貰って聴いたことのある講釈師の修羅場《ひらば》。そのヒラバの張扇《はりおうぎ》の入れ方だったっけ、今この自分の槌の入れようは。
いいなあヒラバ、勇ましくって。
思わずゴクリと生唾を飲み干すと次郎吉は、表に人通りのないのを幸いに、改めて小声で石の空板を叩きはじめた。
カチン――まず咳《がい》一|咳《がい》、ひとつ叩いた、こう講釈師らしく胸を反らして。
「さてもその日の謙信は……」
やがて滔々《とうとう》と読みはじめた。大好きな「川中島合戦」の一節だった。元よりうろおぼえの口から出任せではあったけれど。
カチン、カチン。
「……紺糸龍胴の鎧、白木綿に梵字を認めたる行者衣を鎧の上に投げかけられ、三尺の青竹を手元を直《すぐ》に切り……」
カチカチカチン。
「尖頭《さき》斜に削ぎて采配の代りに持たれ、天下開けて、十九刎の兜の内に行者頭巾に鉢銑《はちがね》入ったるを頭《こうべ》に頂き……」
カチリ、カチカチン。
「……越後国|頸城《けいせい》郡林泉寺村真日山林泉寺に馬頭観音と祭られたる法性月毛の十寸六寸《ときろくすん》にあまる名馬に打ち跨り……」
カチカチカチカチン。
一段と声張り上げて
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