「黒鞣革《くろなめしがわ》の手綱を山形に通して後方に廻して鎧の上帯に結びつけ、しずしずと乗り出したり……」
 カカカカカカカチン。
 いつか石の稽古なんかそっちのけに、ここを先途《せんど》と暁闇の川中島さして上杉謙信入道を、堂々と進軍させていた。声ももう小声ではなく、いつしか仕事場の低い天井へ破れるような大音になっていた。
 ……しかも両軍の戦いがたけなわとなると、修羅場読む次郎吉の声もいよいよ大きく、汗ばむほどに握りしめた手の槌は前後左右へ乱れ飛んだり矣。
 カチカチカチカチカカチカチ。
「謙信タタタタと馬を二十間あまり乗り下げて置き、再び馬に勢いつけて」
 カチン、カチリカチカチ。
「パッパッパと進み寄り、長光の太刀にてエイとばかりに切ってかかる」
 カチ、カチャン。
「心得たりと武田左典廐信繁、これを受け止めた、また馬を乗り下げた謙信が馬勢を付けて進みきたりヤッ、ヤッ、ヤーッ」
 カチャカチャ、カチャーン。
 とたんにハッキリ手応えあってゲソッと何かの剥がれ落ちるような音響《おと》がした。とたんにツツツツ薄白いものが目の前をよぎって、ブスッと地べたへもろ[#「もろ」に傍点]にささった。
「……何だろう……」
 何気なく振り返ってみて、
「……」
 あまりの驚きで声がでなかった。自分で自分の顔の血の、サーッといっぺんに引いていくことが分った。
 ト、とんでもないことをしてしまった。
 いまのいまも兄弟子の秀どんがでかけていった明神の万定さん。そこの大切な御註文で、石燈籠といっしょにお届けしなければならない石の狐の片耳を、なんと落っことしてしまったのだ。
「……」
 親方は昨夜夜明かしでこいつを彫り上げ、大そう出来がよかったといって上機嫌で最前お歳暮にでていったものを。本能的に地べたへささったその耳を取り上げ、泥を払って元の狐の耳のところへくっつけてみたが、くっつこうはずもなかった。
 すぐまたポロリと落ちて元の土の上へ。術もなく傷ついた青白い耳はころがってしまった。
「とんだ……とんだことに……」
 恐らくその狐の耳のいろの何十倍も青白くなっていたろう、あるいは紙のように白く白くなり果ててしまっていたかもしれない顔を力なく上げると次郎吉は、未練らしく、もういっぺんまたその狐の片耳を手に取り上げた。そうして無意味に手の中であっちへやったり、こっちへやったりしていた。
 どうしよう。
 ああ、どうしよう。
 でも、今更どう足掻いたとてもがいたとて、しょせんがどういい知恵がでるでもなかった。
 おもえばおもうほど、考えれば考えるほど、ゆく手が真暗闇になってしまった。しかもあとからあとから目の前にひろがってくる不安の常闇はまるでとこしなへ[#「とこしなへ」に傍点]の日蝕皆既のよう絶えずいや増してゆくばかりだった、まるで烏賊《いか》の吹きいだすあの墨のように。
 仕方がねえもうこりゃ、どうにもこうにも……。
 いいながらもまだ涙をいっぱい溜めた目で、力なく手の中の狐の耳を抱きしめていたが、
「堪忍しとくんなさい親方、お神さん……」
 誰もいない奥のほうヘシッカリ両手を合わせると、
「ねえ、ねえ、ごめんなさいほんとに」
 心からまたもういっぺんこういって、そのまんまプーイと表へ。後をも見ずに逃げだしてしまった。
 そのあと空しく薄暗い土間へ放りだされている石の狐の耳ひとつ。
 ……表はいつか数え日の暮れがたの暗い氷雨が音立ててさびしくふりだしていた。

 その晩おそく石屋から火の玉のようになって談じ込まれた湯島の家では、圓太郎夫婦が平あやまりにあやまったのち、圓太郎がお座敷三つ分稼いだお銭《あし》を五、六日して先方へ届け、やっと勘弁して貰った。
「仕様がねえおたんこ[#「おたんこ」に傍点]茄子だ」
 忌々しそうに圓太郎は呟いた。だからいっそのこと芸人にしちまえば……とつい口まで出かかってくるのを、危うく圓太郎は耐えていた。
 あくる年の二月、今度は池の端仲町の山城屋という両替屋へ奉公にやられた。
 いろいろさまざまのお金の山の中へ身を置かれて、お金の誘惑はプツリともなかったが、端《はした》なお鳥目の誘惑の方はしきりだった。といって何も持ちだして買い食いをしようの、悪遊びをしようのというのじゃない。今年十二になる坊っちゃんの書きかけて止めにしてしまった手習草紙があるとすぐそれをもらっては四つに切った。また八つに切った。その紙の中へお店の小銭を適当に掴みだすと、手際よくクルクルと包んではすぐ封じ目を糊で貼った。
 そしてその上へ、下座さんと書いた。
 圓之助様と書くのもあった。
 橘太郎様と書くのもいた。
 圓八様ともまた書いた。
 さらに勇八様と、圓助様と――みんな落語家時代の同じ楽屋の人たちの芸名だった。
 また小圓太様と自分で自
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