って恐る恐る顔を上げて玄正がこう訊ねた。
「これ[#「これ」に傍点]じゃ」
言下に節くれ立った手で桐庵先生は、己の咽喉仏のあたりを指した。
「と申しますと」
重ねて玄正が訊ねた。
「咽喉をつかう声をつかう商売じゃ。それもとりわけ派手なのがよい」
キッパリと先生はいった。
「……」
玄正はまた頭を下げた。
「そうさえしたら胸隔がひらく。病気も治る。必ず必ず桐庵、太鼓判を押して請け合う」
いやが上にも念を押すように、
「さればさ阿父さん同様の商売もよかろう。そのほか遊芸百般何でもよろしい。みなこの病人には向いておるかもしれぬ」
「……」
さらにまた玄正は低く頭を下げた。おすみもいっしょに。再び顔を上げ、しずかに二人目と目を見合わせたとき、どちらの顔にもいいしれぬ寂しいあきらめのいろが濃くながれていた。中にただ一人、それまで化石のように固まってしまっていた父圓太郎の顔の、いつしか桐庵先生の話|半《なかば》から生色を取り戻し、だんだんニコッと微笑みだし、いまや顔全体がだらしなく大満足に崩れてしまいそうになってきていることを何としよう。それ見ろそれ見ろ、だからこッとら[#「こッとら」に傍点]初手からいわねえこっちゃねえってんだ、ざまァ見やがれかんぷらちんき[#「かんぷらちんき」に傍点]め――ほんとうに今の今そういいたげな得意満面の顔いろだった。
でも、ただ一人というのは作者の勘定違いだろう、もう一人、最前からこの話のなりゆきやいかんとこの大暑に夜具の掻巻へ顔埋めて身体中を耳に、聴き入っていた当の次郎吉自身の喜び、ああ、いまどれほどといったならいいのだろう。ほんとうに次郎吉にとっては、桐庵先生の皺枯れ声のひとつひとつが天来の「声」と聴けた、世にも有難い神々の御託宣とおもわれた。夢に夢見るとはこれこのことだろう、思いもかけない喜びに、身体中の隅々までがいっぺんにパーッと明るくなってくるような思いがしたのだった。
やがてすっかりあきらめつくしたもののように、やや青ざめた顔を横に振った兄玄正が、
「有難うございました先生」
低い力の無い声で礼をいうと、今度は病人の方へ向き直って、
「次郎吉」
のしかかるように顔の上から、
「オイ、いのちには代えられぬ。阿母さまも承服して下さるじゃろう。お前明日から元の小圓太になれ。その代り、末始終、芸の勉強だけを忘れまいぞ」
負け惜みのようにいつもよりまたいっそう恐しい顔をしていった。
「……」
とたんにまたいよいよ深くスッポリと小圓太は掻巻で顔を隠した。あまりの事の嬉しさに、かえってきまりが悪いような気がしてきてますますまっとう[#「まっとう」に傍点]にみんなの顔なんか、見てはいられない心持だからだった。僅かにそのかぶってしまった薄汚れた掻巻が、そのとき合点々々するように縦に二つ動いた。とおもったら今度はその掻巻が小止みなしに小刻みに慄えはじめた。そのまんまいつ迄も止まらなかった。
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第二話 芸憂芸喜
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一
笹寺の笹や四谷の秋の風 綺堂――絶えずその笹寺の笹の葉摺れが寂しく聞こえてくる、寺続きの横丁に、圓太郎の師匠たる二代目三遊亭圓生は茶がかった風雅な門構えの一戸を構えていた。親父圓太郎に連れられて次郎吉の小圓太は、その句のような秋曇りした一日、はるばる下町からのて[#「のて」に傍点]まで上ってきて圓生のところへ弟子入りした。内弟子としていろはのいの字からやり直すためだった。
「ハイハイハイおいでなさい」
まだ圓太郎よりは若く五十には一、二年あるのに胡麻塩頭と前歯の一本抜けているのが年より老けさせて見えるのだろう、鼻の大きな、赤味を帯びた皺だらけの顔をした圓生はキチンと御年始の口上をいうように両手をついて、恭々しく小圓太にまで挨拶をした。
「……」
めんくらってペタッと鮃《ひらめ》のようにお辞儀をした小圓太はしばらくしてソッと頭を上げてみると、まだ師匠はお辞儀をしていた。あわてて小圓太はまたお辞儀をつけ足してしまった。
「そうかえもう十六におなりかえ、早いもんだねえ、ついこの間まで長い振袖を着てヨチヨチ高座へ上がっていった姿が目に見えるがねえ」
いかにも親しみ深げに圓太郎のほうへ省みたが、
「フム、フム……やっぱり高座が……フム忘れられない、いや結構です、おやりおやり、やるほうがいい」
肯きながらスポンといい音をさせて、凝った古代裂《こだいぎれ》の煙草入れの筒を抜き、意気な彫りのある銀|煙管《ギセル》を取り出した。いかにも芸人らしい物馴れた手付きで煙草を詰め、傍《かた》えの黒塗りの提げ煙草盆の火でしずかに喫《す》いつけると、フーッと二、三度、うすむらさきの輪を吹いた。
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