をしたまま、元気を付けるように国芳はいった。東海林桐庵先生は国芳の師匠、中橋の豊国から引き続いてかかりつけ[#「かかりつけ」に傍点]の名医だった。そのころ通油町《とおりあぶらちょう》に住んで、町医者でありながらひと格《かど》以上の見識を持っていた。
「……」
コクリと次郎吉は肯いた、師匠すみませんという風に。
芳年は大団扇で倒れた弟弟子の上を、しきりに荒々しく煽いでやっていた。額の上の手拭が生暖かくなった時分、また冷たいのと取り替えてきてはのせてくれるのは芳幾だった。あいにく往診中だった桐庵先生が、それが持ち前の托鉢坊主のような風体をしてやってきて下すったのは、正午をよほど廻ってからだった。もう圓太郎夫婦も、義兄玄正もみんな心配そうに枕許へ詰めかけてきていた。大団扇は芳年の手から世にも真っ青な顔をした母おすみの手へと移されていた。冷やし手拭を取り替える役も心配そうに顔を曇らせている義兄玄正にと変っていた。中でも父親の圓太郎はペタッと坐ってしまって、師匠の国芳へ礼やら詫びやらいうことさえ忘れ、ただもう恥も慮外もなくオドオド溜息を吐いているばかりだった。
「あの……師匠ちょっと」
七十越したとはおもわれない元気な手つきで手早く診察をおえてしまうと桐庵は、国芳のほうへ目配せした。フラフラ立ち上がって国芳は桐庵と仕事場のほうへでていったが、すぐまた二人してかえってくると、
「じゃ先生、何でもお前さん、あけりゃんこ[#「あけりゃんこ」に傍点]のところをこの人たちにいってやっておくんなせえ、私《あっし》ァちょいと他行だ」
親指と人指指とを丸めて猪口の形をこしらえ、ニヤリ口のところへ持っていって見せると熟柿臭い呼吸を吐きちらしながら国芳、芳年芳幾の二人を促がしてまたフラフラとでていってしまった。
あとへは桐庵先生を枕許に、圓太郎夫婦と玄正とがのこされているばかりだった。
……駄目だというのかな、こりゃことによると。
そう、きっとそれにちがいない。
でなければこんな自分たちだけをのこして、さっさと国芳お師匠《しょ》さんが引き取ってっておしまいなさるわけがない。
一瞬間誰もの胸をスーッと外《よ》ぎってゆく暗い冷たいものがあった。そういっても重苦しいものでいっぱいに皆の胸がしめつけられてきた。それには薄暗いこの部屋の鼻をつく絵の具の匂いが屍臭をおもわせて不吉だった。
「……」
圓太郎夫婦の、玄正の、期せずして六つの目が、桐庵先生の無精鬚だらけの塩鰤《しおぶり》をおもわせる顔の上へと集まった、紅か白粉かと胸|戦《おのの》かして最後の宣告を待つもののように。
「オイこの病人はな」
世にも無雑作に先生は口を切った、皺枯れ声で。
思わずハッと一同がみつめていた先生の顔を、さらにまた深くみつめ直すようにした。皆の胸がドキドキしてきた。
「死ぬよ、これは」
そのときだった。世にも未練ない調子で、こう先生はいい放った。おお紅。南無三、紅が流れてきた……。
「とッとッと」
ニヤリ先生は毛むくじゃらな手で遮って、
「気の早い人たちじゃな、もう少し聞かっしゃい話の先を。このままここでこの道に進ませておいたら間違いなく死ぬとこういうのじゃ」
またニヤッと一同の顔を意味深げに見廻した。
「で……では……先生次郎吉は……何とか……何とかあの助かりますので」
膝行《いざ》り寄るようにして義兄玄正が訊ねた。
「ウム」
ガクリと大きく顎を揺って、
「助かる、たしかに」
頼もしそうに先生はいった。
「お願いで、お願いでございます、どうか、どうか先生お助けなすって」
声もオロオロおすみはいった。顔中がしとど涙で濡れていた。その後で父圓太郎は、ただもういたずらにパクパク口だけ動かしてポカンとしていた。
「だがしかし」
ギロリと若者のように目を光らせて先生は、
「このままではいかん、このままこの者にこうしたコツコツと身体を動かさずやる仕事をさせておいたなら間違いなく労咳《ろうがい》になる。そうして死ぬ、現にこれこの通り労咳のトバ口、血を吐いていおる」
「……」
黙って玄正は目を伏せた。おすみの唇が烈しくワナワナ慄えていた、父親といっしょに。
「さりとて力業は尚いかん。いや、むずかしいのじゃ一番こういう質《たち》の子が」
しみじみと嘆息するように、
「早い話が己の身に付いた道を走らせてやれば仲々に長生きもするだろうが、そうでないところを歩かせたりすると気鬱からすぐ労咳になる。労症労咳、繰り返していうようじゃが、命取りじゃ。これは知っていなさるなよく」
またギロリと一同を睨み廻した。恐れ入ったように玄正が頭を下げた。いっしょにおすみ、圓太郎もお辞儀をした。
「と、いたしますとあの先生、この子、一体あのどういう道に進ませましたなら……」
ややあ
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