一事が万事いかにもあく[#「あく」に傍点]の抜けた芸人々々した処置振《しょちぶ》り――そうした一挙一動一挙手一投足の末まで(親父の圓太郎にしてからがそうであるが――)が、小圓太にとってはいかにもピタリと己の血にかよう何かだった。見ているだけでスーッと胸のつかえ[#「つかえ」に傍点]が下りてきた。どこがどうというのじゃない、いいえそんな理屈でも何でもなくただもうもっともっとぬきさしのならない心の底の底のまた底から、ふるさとの声を聴くおもいがするのだった。
 ここに――ここにこそ自分の心の故郷がある。ほんとうにいま何年ぶりかで(ああ何と永い永い年月だったろう、それは)空や水、水や空なる大津渡海《おおわたつみ》へと放たれたこの自分自身だろう。フーッと吸い込むこの部屋の空気のひとつひとつさえが小圓太には黄金白金《こがねしろがね》にもまさるようおもわれた。嬉しくて嬉しくて何べんも涙があふれそうになってきた。だから、だから、しっかりやるんだ、やるともさ、やらなくってよ――とたのもしく小圓太は心に自問自答していた。
「じゃ師匠何分お願い申します、どうかひとつみっちり仕込んでおくんなすって」
 ややしばらく仲間の話、席亭の話、取り止めもなく喋りちらしたのち例によってそそくさ立ち上がりながら親父の圓太郎はもういっぺん改まってこう頼んでかえっていった。
 すなわちその日から小圓太は、ハッキリとした二代目三遊亭圓生の内弟子となった。
 内弟子は他に誰もいなかった。おしのどんという縮れっ毛の女中が一人いるきりだった。
 お神さん――。お美佐さんという三十三、四になる美しいがつんとすました背の高い御殿女中風のひとだった。黒襟の袢纏か何かで洗い髪に黄楊《つげ》の横櫛という、国貞好みの仇っぽいお神さんを想像していた小圓太は大へん意外のような心持がした。お美佐さんはこの近くの何とかいう御家人の娘だったのを、何でもこの人でなくてはと、何年か前師匠がいろいろに手を尽して貰ってきた。従ってこんな芸人の住む所らしくもない寂しい四谷なんかに師匠の住んでいることも一にお神さんが下町へ住むことをいや[#「いや」に傍点]がっているせい[#「せい」に傍点]だという。でも、そのときはそんなこと何にもしらなかったから初対面の挨拶をしたとき、お師匠《しょ》さんの圓生師匠とは事変ってまるっきり口数の少ないむしろ素気なくさえおもわれる応対に、いっそ小圓太はさびしいようなものをさえ感じないわけにはゆかなかった。
 でもそんな寂しさ、間もなく本望を遂げて落語家になられたというこのあまりにも大きな喜びの前に、ひとたまりもなくどこかへ消しとんでいってしまった。身体中にはち切れそうないまの喜びは「魂ぬけて」いそいそ[#「いそいそ」に傍点]というのが本音だったろう、全く誇張でなしに小圓太は圓生の住居中をフワフワフワフワ他愛なく飛んで歩いていた。
 やがて日が暮れかけてきた。
 初めて師匠の高座着を風呂敷へ包んだのを首ッ玉へ巻きつけて寄席へ行く供をすべくいっしょに門をでた。仰ぐともう空は縹《はなだ》いろに暮れようとしていた。どこからか秋刀魚焼く匂いが人恋しく流れてきていた。二年前、日暮里の南泉寺の庭で、泣く泣く仰いだときと同じ縹いろの秋の夕空その空のいろに変りはないが、あのときといまとを比べてみたら、ああ何というこの身の変りようだろう。嬉しさに、思わずブルブルと身内を慄わせながら辺りを見廻したら、ほんの僅かの間なのに辺りの金目垣は定かには見えないほどもう薄暗くなってきていた。初めておもいだして腰に吊した小提灯を外し、新しい蝋燭へ灯を点した。薄黄色い灯影を先へ行く師匠の足許のほうへ送りながら、見るともなしに提灯を見ると、勘亭流擬いの太いびら字で「三遊亭」と嬉しく大きく記されてあった。
 ああやっと弟子になれた。俺《おいら》三遊亭圓生の弟子になれた。今度こそほんとうの落語家になれたんだ。
 嬉しい、俺、嬉……。
 思わずこう[#「こう」に傍点]勢いつけて前後左右に揺《ゆすぶ》ったら、フイと提灯の灯が消えてしまった。
「オイなぜ消すんだ灯を。提灯は住吉踊《やあとこせ》の手遊《おもちゃ》じゃねえ、揺って面白えって代物じゃねえんだ」
 急に振り返って師匠が怒鳴った。昼間、永いお辞儀をしたときとは打って変って夜目にもそれと分る恐しい顔つき。思わず全身へエレキのかかるようなものを感じずにはいられなかった。
「ご、ごめんなすって」いっぺんに小圓太は慄え上がってしまった。
 ………………………………。

 師匠圓生は今月は身体に楽をさせるとて、麹町の万長亭の中入りを勤めるだけのことだった。
 四谷から麹町、ほんのひと跨ぎだった。
 見附を越し、広い大通りを少しいって左へところどころに水溜りのある草っ原を越すと、そこに
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