門へでも入らしめたかったくらいなのだが、これは先方が無暗《むやみ》の者を弟子に採らなかったので、とりあえず、つて[#「つて」に傍点]を求めて町絵師ではあるが、美人画や芝居絵よりも武者絵を得意としている国芳を選んで住み込ませたのだった。
……さすがに、この世界はおもしろかった、次郎吉にも。
お寺はもちろん、いままでの石屋や八百屋や両替屋や魚屋と比べては罰が当るとおもうくらい、愉しくもあれば生甲斐も感じられた。
舌であらわすことと筆もて描くことと、そこに違いはあるとしても、「芸」の玄妙不可思議な醍醐味に変りはなかった。もし自分のめざして止まない落語家の世界を品川の海としても、これはたしかにすみだ川を抜手を切って泳いでゆくくらいの愉しさはあった。「自分」という魚はここにおいて初めておおどか[#「おおどか」に傍点]に心置きなく呼吸というものを許されたのだった。まず黄いろと藍とを溶け合わしたときほととぎす啼く青葉若葉の光りのいろの、たちまちそこにあらわれきたる面白さ。次いで赤と藍とを混ぜ合わしたとき、由縁も江戸の助六が大鉢巻の紫をそのままそこに、髣髴たらしめ得るありがたさ。まった、ほんものの黄金《きん》の絵の具をつかったより黄いろと茶いろをかきまぜて塗ったときのほう、かえって黄金《きん》以上の黄金《きん》いろたり得ると知ったことも、次郎吉にとってはまこと愉しき一大発見だった。
かくて始めて知った「色」というものの、蠱惑《こわく》よ、秘密よ、不可思議よ――虹の世界へ島流しに遭った童子のように次郎吉は、日夜をひたすらに瞠目し、感嘆し、驚喜していた。
……癇癪《かんしゃく》持らしく頬のこけたそのころ六十近い師匠の国芳は、朝から晩までガブガブ茶碗酒ばかり呻っていて、滅多に仕事をしなかった。溜め放題仕事を溜めて、お勝手|許《もと》に一文の蓄えもなくなったと見てとると、ここぞとばかり仕事をはじめた。二枚、三枚、四枚、五枚――いままでの怠け放題怠けていたのを一挙に取り戻すかとばかり国芳は、あたかも鬼が煎餅を噛むようにぐんぐん片ッ端から片づけていった、あるいは武者絵を、あるいは名所絵を、あるいは草双紙合巻の挿絵を。
どれもこれもが北斎もどきの、いかにも豪勇無双の淋漓《りんり》たる画風のものばかりだった。国芳日頃の酔中の大気焔は、凝ってことごとくこの画中の武者が勇姿となるかとおもわれた。
何ともいえぬ芸術的満足感に満身を燃やしながら次郎吉はさしぐまれるほど興奮して、兄弟子たちと茫然と勇ましい師匠の筆の伸びてゆく跡を目で追っていた。多くの兄弟子たちの中に師匠に瓜二つの勇ましい絵を描くこれも癇癪持らしい背の高い男と、優美な絵を得意とする口数の少ない色白の男とがいた。師匠張りの絵を描く男がのち[#「のち」に傍点]の月岡|芳年《ほうねん》だった。優美な絵を描く方がのち[#「のち」に傍点]の落合|芳幾《よしいく》だった。師匠は今いったような次第で到底じか[#「じか」に傍点]に手を取ってなんか教えてくれそうもなかったから、主としてこの二人の兄弟子から丹誠の手ほどきを受けることにした。二人とも教え方の呼吸に違いはあったが、それぞれ親切に教えてくれた。次郎吉はこの二人の上に他人とおもえない情誼をおぼえた。心から、兄事した。
さるほどに――。
上野や向島や御殿山の花もいつか散りそめ、程ちかき人形町界隈の糸柳めっきり銀緑に萌え始めてきた頃、やっと次郎吉は雑魚《ざこ》の魚《とと》まじりながらに、師匠の描いた絵草紙の下図へ絵の具を施すくらいのことはできるようになってきた。いつ迄も忘れないだろう、師匠国芳が酔余の走り書きになる黒旋風李達が阿修羅のような立姿へ、はじめて藍と朱と墨とを彩ってゆくことができたあの瞬間の晴れがましさよ。何ともいえない恐しさ嬉しさにみっともないほどガタガタ次郎吉は筆が慄えて止まらなかった。にもかかわらず、塗りおえたとき、何にもいわずにきょうも茶碗酒を呷りながらジーッとそれを見ていた師匠は、
「次郎、お前《めえ》、筋がいい」
酒で真っ赤にした目をパチパチさせながら、簡単にただこれだけいってくれた。
ハッと次郎吉はまた身が竦んだ。思わず鼻の筋が弛んで、キーンと泣けそうになってきた。
「オイお前《めえ》うち[#「うち」に傍点]の師匠が賞めるなんて滅多にねえんだ、忘れるなよ」
どやしつけるように背中を叩いて芳年がいった。
「ほんとに勉強しておくれよ次郎さん」
笑顔でやさしく芳幾もいってくれた。
「やり……やりますよ……」
いよいよ泣けそうになってくるのに一生懸命次郎吉は耐えた。耐えていた。でもやっぱり次第々々にこみ上げてくるものがあって、目の前いっぱいに仁王立ちしている活けるがごとき黒旋風李達の、ボーッと淡《うす》れていってしまうことが
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