突ッぱねるようにいった。
「しかし……しかしお前何か……」
「ありません」
「あるだろうしかし」
「……いいえ。ありません……」
「しかしほんとにお前……」
「ないったらないんです」
問答無益という風に目を閉じてしまったが、やがて目を閉じたままで、
「ヘッ、俺、ほんとに芸のほかにやりたいものがこの世の中にあったりしておたまりこぶし[#「おたまりこぶし」に傍点]が……」
そのまんまゴロリと寝返り打つと、反対のほうを向いてしまった。いい知れぬ怨めしさに、危うく涙がこぼれようとしてきた。
「……フーム……」
ますますほんとうの突き詰めた心のほどを見せられてしまって玄正は、ますます当惑してしまった。
今までこんなにも自分は、この腹違いの弟がひとすじの強い強い心を内に持っていようとはつゆ[#「つゆ」に傍点]しらなかった。たかが親父の血を受けたぐうたらべ[#「ぐうたらべ」に傍点]くらいにおもっていた。なればこそ何とかまっとう[#「まっとう」に傍点]の道へ引き戻して一人前の人間にしてやろうといろいろ心を砕いていたのだった。
それが――それが……。
怠け者でも、半人足でも、片輪でもまた悪人でもなかったのだ、この弟は。
ただ進もうとするその地点が、自分たちの考え方とは全くちがっているだけで、その道へたいしては律義真ッ法な奴だったのだ。偽だ偽だとあざ笑っていた掌中の石塊《いしくれ》が、あに図らんや小粒ながらもほんとの黄金《きん》だと分ったような大いなる驚異を感じないわけにはゆかなかった。
だとしたら、ではいっそ芸人にしてやるか、こんなにも本人が望んでいるように。
否――と、さすがにそれは心に応じ兼ねるものがあった。
深川の商人《あきんど》の家に生まれながら、なぜか子供のときから、仏門が好きで遊びひとつするにも袈裟衣を身にまとう真似ばかりしていて、ついにほんものの出家とまでなってしまったくらいの玄正には、いくら次郎吉の切なるまごころのほどは分ったとしても、しょせんが三味線太鼓で日をおくる寄席芸人の世界など無間地獄のトバ口くらいにしか考えられないのだった。
でも――ハッキリ本人は、芸以外の何物にも情熱をみいだすことはできないといい切っている。
およそこの世に人と生まれ、好きこそものの上手なれ、好んで己のめざす世界以外で立身出世なしとげた者はあまりあるまい。
ほとんどないといってもいいだろう。
早い話が、この自分だ。
この自分の出家志願だ。
随分、風変りにも程があるが、無理矢理出家してしまったればこそ、いまだ若僧の身分ではあるが、法の道の深さありがたさは身にしみじみと滲みわたり今やようやく前途一縷の光明をさえみいだすことができそうになっているではないか。
では、汝、玄正よ、この弟にもここは一番|清水《きよみず》の舞台から飛び下りたつもりで、おつけ[#「おつけ」に傍点]晴れて好き好む芸人修業、落語家修業をさせてやろうか。
……そこまで考え詰めてみては、さて落語家――寄席芸人という奇天烈《きてれつ》な門構えの前までやってくると、妙に玄正の心はグッタリと萎えてしまい、思い切ってその門叩き、中へ入れてやるだけの了見にはならなくなってしまうのだった。
しかし、しかし、何べんも最前から繰り返すように、全く人間は好きな道以外、出世の蔓は求められないものとすれば……。
そうしてそれが唯一絶対の真理だとすれば。
ああ、この自分は今の今、一体どうしたらばよいというのだ。
幾度か幾度かこうして玄正の心は、ゆきつくところまでゆきついては後戻りし、後戻りしてはまたゆきつき、じれったいほどどうどうめぐりばかりしては自分で自分の心持を持て余しているのだった。
「……フーム……フーム……」
難解な考案の前に相対した禅僧のごとく玄正は、またしても微かな呻り声を二度三度と洩らしていた。
「……」
さあもうどうにでも勝手に料理しておくんなさいと心で大手をひろげて次郎吉は、いつの間にか枕へ顔を押付けたまんま薄目をひらきときどきチラリチラリとその義兄の当惑顔を盗み見していた、少し惨忍な快感にさえ駆られながら。
かくて――。
芸以外に好きなものはない、およそ芸のほか一切のものには何らの興味も情熱も生命すらも感じられない。不憫にもこう深く深く信じて止まない次郎吉のため、ついに玄正は初一念をひるがえした。そうして快く「芸」の大野原へと放《はな》ちやった。
といっても、それは落語家の世界では決してなかった。
あくる年の春早々、次郎吉の病癒ゆるを待って当時豪放豪快な画風を以て江戸八百八町に名を諷われていた浮世絵師|一勇齋国芳《いちゆうさいくによし》――その国芳の玄冶店《げんやだな》の住居へと、内弟子に預けたのだった。玄正としては本来ならば狩野某の
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