芸人暮らしとはてん[#「てん」に傍点]からくい違うものがあった。講釈で大好きなあの一心太助も実録ではしょせんがこうか、宵越の金持たぬが自慢の江戸っ子の肴屋さんとはいえ、心の奥のまた奥では儲かる、儲からないを大専《だいせん》とする人たち、つまりいってみればハッキリとした「商人《あきんど》」だった。
 こちらは元々芸が好きなればこそなった芸人でいい呼吸にその芸がやれ、そこにいるだけのお客様がドーッと喜んでくれたら、その嬉しさは天にも上るもの以上で、あべこべにこっちの懐中《ふところ》からいくらか出してバラ[#「バラ」に傍点]まいてやったとて毫末《ごうまつ》も差し支えないというような嬉しい気ッ風が骨身にまで侵み込んでしまっている次郎吉のようなものにとって、この儲かるとか、儲からないとかということは自分にとっては全くあまりにも風馬牛過ぎる「世界」だった。
 その自分にとって血でも肉でも骨でもない「世界」へと、いま次郎吉はしきりと進軍を強いられている。進軍どころかぐんぐん[#「ぐんぐん」に傍点]強行軍をつづけられている。
 やがての駄目は、必定だった。
 ただいつの日それがやってくるか、早いか、晩《おそ》いか、ただ現在のところでは次郎吉はガチャ鉄親方恐しさのみで、セッセと働いているというだけのことだった。
 つまりもうひとついってみれば青い美しい水の中でこそとこしなえに生き永らうべき「自分」という動物を、無理から陸へ引っ張り上げて、ここを先途と働かせている現在だった。
 これはいつか――いつかとんでもないことになる、ならずにはいない。
 ああ俺、いまに鉄親方の手鉤をこの横ッ腹へぶち[#「ぶち」に傍点]込まれるかもしれない。
 つくづくその日が恐しかった。その日の景色をおもって次郎吉は、ひたすら自分の心臓を真っ青にしていた。

 さすがに手鉤はぶち込まれなかったが、憂えていた日は思いのほか早くやってきた。心に染まない仕事ばかり、朝に晩に何ヶ月というもの精魂を傾けていたせいか、次郎吉の胸の中にはいつしかラムネの玉のようなしこり[#「しこり」に傍点]ができはじめた。そうして一日一日と膨らんでいった。やがてそれが身体全体くらいの大きさにといえば話が嘘になる、宝珠の玉くらいの大きさになって心をグイグイ締め付けてきたのだった。お月見の前の晩あたりからわけの分らない熱がではじめて、ドッと次郎吉は寝込んでしまった。
 枕も上がらない大病。幾日経ってもよくなっていく気配がなかった。ばかりか、だんだん悪くなっていった。
 気荒のガチャ鉄も病人に打ち込む手鉤はなかった。ばかりかたいへん心配してある日、釣台で次郎吉を湯島までかえしてよこした。

「どうしてそうお前は駄目なのじゃ、今度は辛抱してくれるかとおもえばまたこのように……。古えより一人出家をすれば九族天に生ずるというが、その九族に憂いのみ抱かすればのう、少しはお前後生のほども恐しいとは……」
 翌日の午下り、話を聞いて駈けつけてきた玄正は、薄汚れた鼠いろの衣の袖をかき合わせながら秋晴れの天神様の女坂のクッキリと見える明るい裏二階に寝かされている次郎吉の枕許にピタリと坐って太い眉をしかめた。ギロッとした目が愁いを含めて、よほどの高熱なのだろう杏いろに上気している次郎吉の双の頬を、心許なげにみつめていた。天神さまの神楽囃子がのどかにのどかに聞こえてきている。
「……」
 ややしばらく仰向けにジーッと目を閉じたまま義兄の言葉に聞き入っていた次郎吉は、やがてクリッとした両眼を見ひらくと、
「つまらないんでさ。その日その日が私ァつまらなくてつまらなくて仕方がないんでさ。だからこんな病気になんかなっちまうんでさあ」
 悲しく不貞腐れてといおうにはあまりにもキッパリと、
「エエいまだから皆正直にいっちまいますよ、ねえ兄《あに》さん。ほんとにこればかりはいくら兄さんになぐられても叩かれてもどうにもならないことなんだけれど、この私という人間は好きなことのほか一切何もかもしたくないんでさ。またいくらやったって無駄だとおもうんだ。ねえ、ねえ、あなたもそうおもいませんかね、ほんとに」
 いいながらもさらにまた一段とその決意を深めていくような様子だった。
「……ウーム……」
 あまりにもほんとうの心の底を隠すところなく告げられて、さすがに玄正は一瞬、言句に詰まってしまった。
「……ウーム……」
 もういっぺんまた唸って、
「ではお前……」
 いつになくナンドリと相談するように、
「何になら、なってみたいのだ」
 玄正は訊ねた。
「芸人でさあ、だから」
 待ち兼ねたように次郎吉はいった、何を分り切ったことをといわないばかりに。
「そ、それはいかん」
 あわてて玄正、
「そ、そのほかで……そのほかで何か」
「……ありませんよ」
 低く
前へ 次へ
全67ページ中11ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
正岡 容 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング