#「なおし」に傍点]を飲み干すと、
「猿若の三座……いやまさか三座は無理だけれど、宮地《みやち》芝居、緞帳でいい。いまに私は芝居小屋を開けてきっと三遊亭圓朝の看板を上げてみせる。そのときの道具噺はいまの五倍七倍も派手なもの、大がかりのもののつもりなんだ」
「……」
 三たび濡れた目へ信頼のいろを漲らせて女は、肯いた。
「それには演題《だしもの》――演題の選び方、立て方が大専《だいせん》だ。むろん、芸が空《から》っ下手《ぺた》じゃいけないが、何よりアッといわせるような演題の案文《あんもん》がつかないことには仕方がない、ねえ小糸」
 少しにじり寄るようにしてきて、
「噺の途中へお化けのでるときは私は都楽《とらく》や都船《とせん》の写し絵をつかいたい、忍びの術使いのでるときには鈴川一座の日本|手品《てづま》や水芸もつかいたい、時と場合によったら筋の都合で、とがや紫蝶のあやつり人形もよかろうし、松島亀之助の山雀《やまがら》の曲芸、猿芝居だって使おうとおもう、そういう連中をあれこれと舞台一杯に手配しておいてその上大道具大仕掛大鳴物で、噺と噺との合間を面白可笑しくつないでいく、たしかにこれは江戸中の人たちがアッと目を瞠るだろうとおもうんだ」
「……」
 またしても目が肯いた、嬉しげに、頼もし気に。
「ああ演りたい、早く演りたいなあ、一日も早く。それを演って二千七町八百八町を引っ繰り返してしまいたいんだ、ああ、ほんとに早く私は……」
 今から大舞台いっぱいの豪華絵巻を目に描くとき、早くもとてもこうやってはいられないほどの芸拗を全身全魂に感じだしたらしく圓朝は、また半分ほど酌がせたなおし[#「なおし」に傍点]を今度はひと息に飲んでしまい、ブルブルブルと総身を慄わし、フーッと大きく息を吐きだすと、いつかすっかり黒雲重く垂れこめてしまっている川向こうの景色へ、勢《きお》い立っているいまの心の捌け場を探すもののよう目をやった。松浦様の大椎の木あたり、ようやく迫ってきている暮色をいやが上にも暗いすさまじいものにして、はや大粒の雨、そこでは飛沫《しぶき》を立ててふりだしているかとおもわれる。
「オ、いい心持でひとりで喋っていたら、とんだ空合になってきてしまった。降《ば》れるな今夜は」
 降ることをばれる[#「ばれる」に傍点]と、仲間の符喋でいいながらスッと圓朝は立ち上がっていって欄干《てすり》へ寄った。少し乗りだすようにして両国橋のほうを見るとポツリポツリ、早くも親指の尖のほど渦巻がいくつもいくつも川面へ描かれてはまた消えている。
 でも、どうしてだろう、いつももう浮いたようないろの灯点して囃し立てている広小路の盛り場が、ヒッソリ今夜は薄闇の中に静まり返っていた。
「出してくれ着物」
 すぐ高座着をださせ、合羽をださせ、かっこうよくひとつひとつそれを身に着けて、
「じゃ、おい」
 いってくるよといっしょに階下《した》へ下りようとしたのと、バタバタ真っ青な顔して女中の駈け上がってきたのとがいっしょだった。
「あの……おいでになれませんよお師匠《しょ》さん寄席へは」
 息はずませて女中はいった。
「どうして」
 圓朝は訊ねた。
「開かないんです木戸が」
 また女中はいった、やっぱり息はずませながら。
「な、何ですかいま……大へんな戦《いくさ》が始まったんですって」


     六

 すぐに圓朝は、小糸を自分の家へ――。
 母を見舞わせ、弟子たちの様子を聞かせ、同時に戦の様子も詳しく聞いてこさせることにした。自分は女中を手伝って二階を片づけ、すぐまた下りてきてどんどんそこらの戸を閉めた。すっかり閉め切ってしまったとき、サーッと篠《しの》を乱したような大降りになってきた。
 ダン、ダ、ダーン。なるほど殷々《いんいん》たる砲声が、遠くのほうから轟きだしてきた。
 いよいよ何かはじまった――。
 戸棚から真鍮の燭台を持ちださせ、それを下の座敷のまん中へ置いて圓朝は、たった一本だけのこっていた青蝋燭へ灯を点した。普通の蝋燭の灯のいろとちがって少し陰気で薄黄色いのが、いっそうこの場合の部屋のたたずまいを無気味にした。四方八方閉め切っているのにしきりにどこからか生暖かい風が忍び入ってきて、その灯を揺り動かした、まるでいまにも消してしまいそうに。無気味さが、ますます部屋一杯にひろがってきた。
 その灯の傍に坐って圓朝は、ジッと目を閉じ、腕組んでいた。少し離れたところに、ペタッと腰を落として女中も遠くから不安そうに主人の顔を見上げていた。
「開けて……あの開けて……私」
 ピューッとまた横なぐりの雨が表の戸へ吹きつけてきたとき、小刻みに駈けてきた足音が急に止まって、声がした。小糸だった。すぐ女中が立っていった。
 びっしょり[#「びっしょり」に傍点]濡れしょぼけて入って
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