きた。母のおすみも元気だった。少し遅い出番の弟子たちはまだ家にいて無事だったけれど、早くでていったほうの弟子連中は途中でどうなったか。どこかしことなく江戸中残らずの木戸が、もう閉《し》まってしまっているのだということだった。
「それに戦《いくさ》はお師匠《しょ》さん四谷へおいでの時分から上野辺じゃ、もうそろ始まっていたんですってねえ」
 薄黄色い灯の中でひとしお顔を青白くしながら、やっと手足を拭いて坐った小糸が、いった。
 ……そういえば思い当る、九段からあのお壕端かけてかえりはことに錦布《きんき》れの薩摩侍が大ぜい殺気立っていたっけ、このごろ毎度のことだから気にも留めていなかったし、それにこっちは師匠のことで一杯だったから、久保本へ寄っても世間話ひとつするでなくかえってきてしまったのだったが、それではもうそんな差し迫ったことになってしまっていたのか。広小路の盛り場の今夜点していないわけが、いまにしてようやく肯かれた。同時に四谷の師匠のところへだしてやった弟子たちの、首尾好く先方へ着けたかどうかをおもってみた、寄席へでかけていった弟子たちの安危とともに。
「官軍が勝ったともいってますし、公方さまのほうがどうだともいってますし、そこの魚屋さんの前では大ぜいの人がてんでにいろいろのことをいっていてちっとも分らない」
 語り継いで小糸は、
「でも大へんな騒ぎ、聞いていて私ブルブル身体が慄えてきたわ」
 意味あり気に圓朝のほうを見ると、
「だってもう焼けてしまったっていうんですもの」
 世にも寂しい顔をした。
「ド、どこがよ、どこが焼け……」
 キッと相手を見守った。
「……猿若三座が」
 いよいよ寂しい顔をして、
「吉原も、魚河岸も、このお江戸の豪儀なところはみんな坊主が憎けりゃ袈裟までだって、片っ端から薩摩のお侍が、焼き、焼き棄ててしまいましたとさ」
 さも口惜しそうに目を湿《うる》ませた。さすがに生え抜きの江戸育ちの、憤ろしさに抜けるほど白い襟脚《えりあし》が止む景色なく慄えていた。折柄またパチパチパパパパパと続けざまに小銃の音が弾《はじ》けてきた。そして、消えた。
「……」
 黙って圓朝は唇を噛んだ。いつ迄もいつ迄もそうしたまんまでいた。胸かきむしられるような憤ろしさに、自分もまたどうにもこうにもやり切れない思い。希《ねが》うことならいま籠釣瓶の鞘払って、床柱といわず、長押《なげし》といわず、欄間といわず、そこらのもの片っ端から滅多斬りに斬りまくってしまいたいくらいだった。まさかにそれもできないで、ジッとこうやっている圓朝の膝頭はしきりにワナワナ慄えていた。めもけ[#「めもけ」に傍点]に雨が屋根を叩いてきた。それだけが唯ひとつのたよりある現実として身近に大きく聞こえていた。
「いまに江戸中が火の海になるともいいますし」
 また小糸がいつになく口早に、
「大砲《おおづつ》で権現堂の堰を壊してお江戸を水浸しにしてしまうともいいますし……聞いていて私、何だか自棄《やけ》になりそうで困ってしまった」
 幾度か、しなやかな指で瞼を押さえていた。
「ま、しかし」
 やがてのことに圓朝は、
「随分いろいろいうだろう、世間は。どこ迄がほんとうだか、どこ迄が嘘だか、いってる本人にさえ、まだ分ってはいないのだ。それを、いちいち真《ま》に受けて考えつづけてみたところではじまらない」
 ネ、そうだろうとばかり顔を見て、
「だからもう戸閉りを厳重に、火の用心をよくして。今夜はきよ[#「きよ」に傍点]もいっしょにここへ寝かしておやんなさい、お前の傍へ」
 きよとは女中の名前だった、大きく戦《おのの》きながらうずくまっているほうへ目をやった。
「分りましたじゃすぐお床を」
 やっと瞼へ押しあてていた指を離して、
「きよや、じゃお前もすぐお前のお蒲団を持ってきてここへお敷き」
 こう命じた。
 やっといくらか元気づいてきよが次の間へ立ち、小糸が戸棚を開けて真紅な夜具をだしはじめたとき圓朝は、台所からもうひとつ小さな手燭へ灯を点して持ってきた。
「万一のときのことを考えて私は二階に置いてある書きものの始末をつけてくるから」
 こういって、
「すぐ下りてくるけれど、構わないから先へお前たちは寝ておしまい」
 手燭片手に、そのままミシミシ音させて梯子段を上がっていった。また小銃が、乱れ打ちに聞こえてきた、「ヒ、人殺し」。そのあとヒイーと尾を曳いた異様に甲高い若い女の叫びといっしょに。車軸の雨の中走りゆく六、七人の足音が、にわかに乱れた。

 二階の最前の部屋へ入ってペタンと坐り、傍らへ手燭を置いたとたん、裾風でだろうか、音もなく灯は消えてしまった。
 鼻をつままれても分らない真の闇。雨で湿《しっ》けた、生乾《なまがわ》きに似た壁の匂いがムッと鼻を衝いて、また小銃が
前へ 次へ
全67ページ中65ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
正岡 容 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング