まりにも一夜漬け過ぎて面白くできないだろうことは演らないうちから分り切っていた。
 考えると気が重かった。
 何て、何て、因果な初看板だろう。
 つい悲しく、長い眉をしかめた。フーッと深い息を吐いた。
 そのとき賑やかに高座では「横浜甚句」が歌われだした。いつもきまってこの唄を歌えば歌六、高座を下りるのだった。
 ア、これでおしまいだな。
 もういっぺん圓朝は覚悟のほぞ[#「ほぞ」に傍点]を定めた。とまた最前とは別なジーンと硬ばった心持になりながら、しきりに襟を掻き合わせた。
 間もなく歌六が下りてくるとすぐ花やかに芝居がかりの着倒《ちゃくとう》の囃子が起って、黒衣着た萬朝たちがまめまめしく高座へ道具を飾りはじめた。
 師匠さえあれを演ってしまわなかったら、今夜この道具で見ン事かなりにきてくれているこのお客様を唸らせてみせるんだが、近ごろ年の加減でいくらかもうろくしてしまったのだろう師匠の上が今更ながら怨めしかった。
 やがて冴えた拍子木の音とともにキリキリ御簾が絞られたが、その拍子木の音の百分の一も圓朝の心は冴えなかった。ばかりか、水銀のようにドロンと重たく曇っていた。
「…………」
 強いて面を晴れやかにして上がってゆくと、前に師匠が充分に伺った「小烏丸」もどきの別の[#「別の」に傍点]噺をいとも危っかしい調子で喋りだした。すでに噺が似かよっている上に、「小烏丸」の急所急所は除けて喋っている。おもしろいわけがなかった。
 しかも急仕立だけに鳴物のキッカケは始終外れる、せっかく鳴物のほうがピッタリ合ったかとおもうと圓朝のほうが口籠ったり、とんだいい違えをしたり、した。しどろもどろ。てんで型にも何にもなっちゃいなかった。
 今晩これぎりと果太鼓《しまいだいこ》とともに御簾が下ろされたとき圓朝は、穴あらば這入りたや、ベットリ冷汗で身体中を濡らしていた。
「オイ思ったより妙でねえな」
「ウム。しかしこれ圓朝かなあ。俺、前に聴いたときもっと巧えとおもったんだがなあ。別の奴かもしれねえぜ」
 ぞろぞろ[#「ぞろぞろ」に傍点]下足の方へ立っていく客の群れの中から、こんな聞こえよがしの高ッ調子がまだ高座のまん中で手を突いたまんまでいる圓朝の耳へ鋭く痛く刺《ささ》ってきた。
 無理はない、演っているこの私でさえ、じれったいほどまるで調子がでてこないんだもの。ことさらにあとからあとから冷汗の身体全体へ滲みだしてくることが仕方がなかった。
 まあ仕方がない明日を聴いて貰おう。
 僅かに自分で自分をこう慰め人に顔を見られるのもいや[#「いや」に傍点]な思いでスゴスゴ圓朝は楽屋へ下りてきた。

 翌晩がきた。
 何たるこったろう、今夜もまた、師匠は圓朝が演るはずの「繋馬雪陣立《つなぎうまゆきのずんだて》」をそっくり演っていってしまった。――拠所《よんどころ》なく雪の道具だけに講釈で聴いて覚えていた「鉢の木」をいい加減にでっち[#「でっち」に傍点]上げて、どうやらこうやらお茶を濁した。
 さすがに、初晩のでたらめの話ほどではなかったけれど、やっぱりいい出来とはいえなかった。
 三日目。
 やっぱり師匠は、圓朝の演る「芝居風呂」をさっさ[#「さっさ」に傍点]と演っていってしまった。その銭湯の道具立てを活かすため、今夜はこれも講釈や文楽師匠の人情噺で聞き覚えの祐天吉松が下谷幡随院の僧となって、坊主頭で朝湯へやってきて鼻唄を歌うくだりを演った。
 どうにかこれは型がついた、口馴れない割合にはという程度だったけれど。
 四日目も「駒長」を先へ喋られてしまった。五日目も「小雀長吉」を先くぐりされてしまったこともちろんだった。そのたんびたんび熱鉄を飲み下す思いをして圓朝は、突嗟に何かその道具立てに因みある噺を考えださなければならなかった。
 いってみれば毎晩ひとつずつ即席の難題を突き付けられているような何ともかとも名状しがたい辛さ、苦しさ。
 どうやらその晩お茶が濁せて打ちだすたんび、ゲソッと圓朝は自分の頬の落ちていることを感じた。
「……ひどい……ひどいなあ師匠、どれほどの私に怨みがあって」
 いくら何でも師匠の仕打。もうもうろくとのみは考えられなかった。ついこう呟かずにはいられなかった。
 でも――でも、なろうことなら圓朝、大恩ある師匠の上をこれッぱかしでも怨みたくはなかった。そっと何とか自分の胸を撫で摩《さす》って、怨めしさを塗り潰して置きたかった。
 そう、そうだ、師匠はこの私を励ましてやろうと、それでワザとああした真似をおしなさるんだ。
 そう、そう、それそれ、それにちがいない。やっとそういう考え方に思い至って一瞬、怨めしさは影を秘め、心に真如の月澄まんとしたが、
「……だが……だが……」
 もったいないが澄みかけた天水桶のその水は、すぐまたそばから濁
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