かえってくると、また、水を浴びた。
 そうして、
「私が芸上達なさしめ給え。何とぞ一日も早く真打《とり》たらしめ給え。どうか……どうか……初代さまお願いで……」
 夢中でこう祈るのだった。
 心だにまことの道にかないなば、祈らずとても神や守らん。ましてや、かくも一心不乱に祈りつづけている圓朝。神の加護なき謂《いわ》れがなかった。
 それほどの意気込で勉強するからだろう、他の人の二つおぼえられる噺が三つ、三つおぼえられる噺が四つ、あとからあとから面白いように新しい噺がおぼえられてきた。そうしてそこにうそ[#「うそ」に傍点]のように五十という落語《はなし》の数が、僅かの間に圓朝の頭の中に収められてしまった。
 かなりの真打でも十五か二十の噺しかしらないものの多かったそのころ、まだ三つ目にも覚つかない圓朝が、噺五十。
 客も驚けば、楽屋も席亭も目を瞠った。
 だんだん掛持の寄席の数が増えてきた。
 秋から冬へ。弟子二人の喰扶持も、自然に浮いてくるようになった。
 あれほど悩みの種だった金龍寺の門番へのお心付けも、どうやらやれるようになった。
 やっと圓朝は森下の寺町通りを、薄氷を踏む思いして駈け出さないでもいいようになってきた。
「ありがたいことだねえ」
 心からうれしそうに母親のおすみがいった。圓朝もほんとうにうれしかった。
 生きてゆくということの張合――しみじみとそれが感じられた。
 水ごりとっては寝るたんび、あしたの目醒めが楽しかった。辛くとも苦しくとも、何かこのごろは身の周りがよく澄んだ青空で装われているようだった。
 さて、この上の望みには――。
 またしてもある日圓朝はつくづくといってしまったのだった。
「俺、何とかして真打がとってみたい、せめてあの宮志多亭の招き行燈に入らなければ」


     四

 十八の年の九月。
 師匠が杉大門の大将にたのまれてふた月ばかり甲州のほうの親分手合のところへ、余興のようなことでたのまれていっている間、萬朝と小勇と、あとに音曲噺の桂文歌を頼んで、はじめて圓朝は真を打つこととなった。
 いまとちがってひと晩にせいぜい五人か六人しかでなかったそのころの寄席、みんなが二席ずつタップリとやれば、どうやら時間はもつことができた。
 が――。
 さすがに、目貫《めぬき》のいい寄席では、圓朝のトリなんて鼻もひっかけてはくれなかった。
 そこの寄席、かしこの寄席と掛合って歩いた末が、駒込の炮碌《ほうろく》地蔵前の、ほんのささやかな端席だった。それが初めて圓朝のトリを肯ってくれた。しょせんが師匠がかえってきて喜んで貰うべく報告にいけるほどの結構の寄席じゃなかったけれど、せめても師匠の留守のうち、このくらいのことはこっそりしておいて、よくやったお前といわれたかったのだった。それに初めて招き行燈へ上げた「三遊亭圓朝」の五文字。
 薄寒い秋の日暮れ、その寄席の前へ立ってその五文字を眺めたとき圓朝は、鏡の中の我れと我が顔をほれぼれと見入っている思いで、いつ迄もいつ迄もその前を立ち去ることができなかった。
 ねがわくば楽屋入りなんか止しにしてしまって、ひと晩中この寄席の前へ立ったまんま、ジーッとこの招き行燈を見守っていたかったくらいだった。
 でも……。
「本郷もかねやすまでは江戸の内」とうたわれたそのころ、駒込の炮碌地蔵前ときては場末も場末、楽屋の窓を開けると、裏がすぐ覆いかぶさりそうな竹林で、そのまた向こうがいちめんの畑になっていた。
 秋寒い夜風の中で、小止みない竹の葉擦れとともに、狐のなく声が聞こえた。
 圓朝はここを先途と喋りまくったけれど、毎晩みすぼらしい装《な》りをした場違いのお客様が、二十か三十くるばかりで、てんでどうにも仕様がなかった。
 席亭も止めてくれがしの顔をした。
「この前きてくれた日本手づまの鈴川伝之丞さんのほうがよっぽど入《へえ》ったよ」
 楽屋へきて、聞こえよがしにこんなことさえいった。「ざまアみろ」と嗤っているにくい宮志多亭の雷隠居の顔がみえる思いがした。
 いたたまれない思いで圓朝は、とうとう十日の約束を五日で止めてしまった。
 次は下谷広徳寺前の寄席。
 下谷ではあるが、ここらも寂しい寺町はずれの、やっぱりお客の頭数は駒込とさして変らなかった。
 三日で止めた、これは。
 麻布古河の寄席を打った。
 つづいて狸穴《まみあな》を一席、きめた。
 どっちも十二、三人なんて晩があった。
「当分、私、休ませて頂きたいと存じます」
 戦い利あらずと見てとったのだろう、狸穴の寄席の千秋楽《らく》の晩に、文歌がこういって暇をとっていってしまった。
 万事休す矣。
 初看板の夢|壊《つい》えて圓朝はガッカリとしてしまった。
 ついこの間まで身の周りを包んでいてくれた青空が跡形もなく失せつ
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