かずだ」
 あべこべだ、それじゃあ。
 とうとう圓朝はお腹をかかえて笑いだしてしまった、次の間にいた阿母といっしょに。
 ようやく笑いやんだのち詳しく素性を訊いてみると、両親はなく、伯父に当るその大工の親方も本人が落語家に成ることは決して反対してはいない、むしろ望んでいるくらいなのだということが分った。
「ありがとう」
 ハッキリ圓朝は頭を下げて、
「それまでに……それまでにおもって下さるなら、私の弟子……いやまだ二つ目の私が弟子なんてとんだおこがましいが、まあ弟でも何でもいい。お言葉通りうちへきていっしょに苦労をして貰いましょう」
「エ、それじゃ私をお前さんのお弟子に。ヘイありがとうござんす」
 ピョーイと素頓狂《すっとんきょう》に飛び上がると、
「じゃひとつねえ師匠、縁起に歌いましょ、都々逸でも」
 ニッコリ笑って、柄になく錆びのある中音で、
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※[#歌記号、1−3−28]異人館の屋根に異国の旗が風に吹かれてブラブーラ
 これがほんとの異国(地獄)の旗(沙汰)も風(金)次第イイ……
[#ここで字下げ終わり]
 と一気に歌った。
 大へんな弟子があったもんだ。でもそのすっとぼけた調子にも、いよいよ父圓太郎をおもわせる何かがあった。
 いっそう圓朝は可愛くおもえた。
 萬朝という名を、その日、やった。

 初代のお引合わせだろうか、つづいてもう一人、弟子がきた。
 これは白魚河岸のほうの床屋の職人で、二十一になる銀吉という、目のキラリと光る侠気《いなせ》な若い仕《し》だった。
 小勇と名乗らせた。
 大工上がりの萬朝はおよそしまらない男で、朝は師匠の圓朝より遅く起きた。夜は圓朝が席からかえってくるともう枕を外してグーグー高いびきの白河夜船だった。
 見兼ねて圓朝が、
「ねえお前どうでもいいけれど、かりにお前昼寝をしてでも朝は私より早く夜は私より遅く寝るってわけにゆかないかねえ」
 こういったらキョトンとした顔をうなだれてしばらく考えていた萬朝、やがて面目ないようにチラと目だけ上げてくると、
「いえ、それがねえ師匠。私ァ昼寝もしてるんで」
 ……それじゃのべったら[#「のべったら」に傍点]に寝てるんだ。
 あまりの馬鹿々々しさに呆れ返って圓朝、それっきり何もいわなくなってしまった。
 銀吉の小勇のほうは俗にいうエヘンといえば灰吹き――目から鼻へ抜ける質《たち》の男だった。
 噺は萬朝のほうが馬鹿々々しくて見込がありそうだったが、日常の茶飯の事にかけては小勇が、恐しいほど万事万端才走っていた。
 従って萬朝は台所の手伝いをしかけている途中で、噺の稽古に夢中になってしまったり、かとおもうとまた用事をおもいだしてそのほうへかかったり、とんとすることがしまらなくて、よく年若の圓朝から叱られたが、小勇のほうはろく[#「ろく」に傍点]になんの稽古なんかしない代り、暇があると表を掃いたり、ごみ[#「ごみ」に傍点]箱のそばの雑草を引っこ抜いたり、一坪ほどの何ひとつ植っていない庭へザブザブ水をやったりした。
 圓朝が御飯をたべていると、後へ廻って団扇で煽ぐのもきっとこの小勇だった。そうしては萬朝のどじ[#「どじ」に傍点]で間抜けなことを、何彼につけて悪しざまにいった、聞きかねて圓朝のほうがなだめだすまで。
「なんのお前、萬朝のほうがどじでもよっぽど無邪気でいいんだよ。あの小勇の奴ときたらお前さんがでかけてしまうとすぐにグーグー高|鼾《いびき》さ。ほんとにお前あの二人がいっしょになるとちょうどいいんだねえ」
 二人きりになると母親のおすみは、つくづくこう圓朝にいった。

 思いがけなくできた二人の弟子。
 それは若い圓朝を、いよいよ勉強させる基となった。
 俺はこんな若くて二人も弟子があると自惚れる前に圓朝は、二人も弟子のあるこの俺がデレリボーッという心持になっちゃいられない、早く早く真打にならなきゃ……。
 そう考えては、一心不乱に勉強した。
 二十一日の金龍寺墓参はもちろん、そののちもズッとかかさず、つづけた。
 まだ若輩のところへ、喰潰しの弟子が二人もきて、いよいよ暮らしは苦しかったから、依然門番への心づけはやれず、そのたんびきまりの悪い思いをしてかえってきたが、それでも何でも月にいっぺん、親しく大師匠の墓前へ立って、まるで生きている人にでも話し掛けるよう、己の昨今を報告し、あわせて、芸運長久のほどをひたすら祈ってかえってくるあの心持は別だった。何ともいえずすがすがと楽しかった。
 かかさず、忘れず、願にかけてよかった。
 その上、毎晩、寄席へゆく前、必ず前の井戸端へ四斗樽を据え、素ッ裸になってその水を浴びた。昼席に勉強にいっていても、必ずいっぺん家へ帰ってきて、水ごりをとらなければ、決して寄席へはでかけてゆかなかった。
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