くして、あべこべに漠々たる暗雲が十重二十重に、前後左右を追っ取り囲んできた。そうしてこの暗雲は三年五年十年かかっても、消えてはゆかない思いがした。ばかりか、日一日と重なり重なってこの自分を、押し潰してしまおうとするもののようにさえ考えられた。
 身体中の骨という骨が今に離れてゆく感じだった。
「…………」
 母親の顔を見るさえきまり悪く、やけくそに夜寒の井戸端でザブザブ水を浴びると圓朝は、そのまま自分の寝床へ入って、煎餅蒲団を引っかぶり、燻《くゆ》み返って寝てしまった。
 ……でも。
 一夜明けると、不思議に圓朝の心はまた、カラリと雲が切れていた。その切れ目から、薄日ではあるが、僅かにキラリと顔覗かせてくる朝日の光りがあった。
 しらないうちにまた活き活きとしたものが、少しずつでも節々に蘇ってきてはいるのだった。
 やる。
 どうしてもやるぞ。
 ヌクッと床の上へ起き直って、別人のごとく圓朝は叫んだ。


     五

 大晦日ギリギリに中橋の桂文楽師匠のところから使いがきた。文楽師匠はあれから一年ばかり上方へいっていたし、こちらも端席歩きをしたり何かしていて随分掛け違って会わなかった。
 何の用事だろう。
 とるものもとりあえずでかけてゆくと、
「初席《はつせき》からお前、俺の真打席《しばや》の中入り前を勤めてくんねえ、頼んだぜ」
 初席とは元日からの新春《はる》の寄席。相変らずの侠気な革羽織を着てどこかへでかけようとしていた文楽師匠は、めっきり大人びてきた圓朝の細おもての顔を見てニッコリいった。
「…………」
 あまりに思いがけないことで、圓朝は口が利けなかった。しばらく目の前の色白の顔をポカンと見ていた。だんだんはち切れるような嬉しさが、あとからあとから擽《くすぐ》ったく身体全体を揺ってきた。
「ア、ありがとうございます」
 思わず長い長いお辞儀をしてしまった。
 そうして、あら玉の春。
 真を打つことは失敗に終ったが、思いがけないこんな福音が転がり込んできたありがたさ。
 狐のなく声の聞こえる場末の寄席の真打とは比べものにならないほど反響のあるギッチリ詰まっているお客の前で、思うまんまに腕の振える幸福さ。あかあかと自分の顔を照らす八間《はちけん》の灯《あかり》のいろさえ、一段と花やかなもののあるよう感じられた。
 ここぞと腕によりかけて圓朝は喋った。
 それには久し振りでしみじみと聴かせて貰った文楽師匠――宮志多亭のときとは段違いに芸が大きく美しく花ひらいていた。
 もちろん、あの時分とて決して拙い芸ではなく仇な江戸前の話し口だったが、遠慮なくいわせて貰えるなら、やや線が細過ぎて江戸前は江戸前でも煙草入れとしてのおもしろさというところだった。
 それが今度は見違えるほど芸の幅が広く立派になっていた。それには何ともいえない明るいこぼるるばかりの色気というか、愛嬌というか、触らば落ちん風情が馥郁《ふくいく》と滲み溢れてきていた。かてて加えて人情噺でありながら急所々々のほかはことごとく愉しく、明るくまた可笑しく明朗ひといろで塗り潰されていて、そこに少しでも理に積んだものがなかった。
「ウーム」
 声を放って感嘆した、圓朝は。
 この人に比べるとうち[#「うち」に傍点]の師匠圓生は決して拙い人ではないが、万事が理詰めで陰々と暗い、寂しい。だからどことなく聴いていて肩が凝る。
 もし絵の具の色にたとえていうなら、うち[#「うち」に傍点]の師匠のは青か藍だろう。
 このごろ一部下司なお客様たちに喜ばれるいたずらに悪騒々しい手合をさしずめ赤とするならば、もちろんその赤ではいけないのだけれど、さりとて青だけでもまた侘びし過ぎる。
 そこへいくとこの文楽師匠は赤でなし、青でなし、巧緻に両者を混ぜ合わせた菖蒲《あやめ》、鳶尾《いちはつ》草、杜若《かきつばた》――クッキリと艶《あで》に美しい紫といえよう。
 ああ、それにつけてもいと切におもわずにはいられない、下らなく悪騒々しい連中は速やかにうちの師匠のような本格の青さを加えて紫の花香もめでたく。噺に陰影《かげ》を添えることだ。
 同時に、噺の筋はたしかだが青ひといろで陰気だと鼻つまみにされている面々は、これまた適当に赤を混ぜることだ。そのとき各々の人たちの芸はそれぞれ皆はじめて画竜点睛、ポッカリと江戸紫の花咲きそめることだろう。
 とするとどうだ、この私は。
 青――あまりにも青だった。
 土台の私自身の「芸」が青のところへ、師匠の青を混ぜ合わしている。だから生来の青は青のままいよいよ深きを加え、あるいは紺となり、あるいは藍となり、あるいはまた萌黄となり、どこ迄いっても要するに陰、陰、陰の連続だった。
 いけない、これでは。
 いかでかそんなことで、まこと愉しめる「芸」というものが、何生
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