でもそれでもまだ足りなくて伝馬町の清松へまで、でかけていった。ここは古くからの講釈場だった。
 初代の田辺南龍がでた。
 同じく松林亭伯圓《しょうりんていはくえん》がでた。
 伊東|燕陵《えんりょう》がでた。
「天一坊で土蔵を建て」と川柳に唱われた初代神田伯山もでた。
 南龍は英雄豪傑の伝記に長じ、伯圓は義士伝に雄弁を振い、燕陵は義経記に一方の長を示した。
 ことに、伯山の、急かず騒がず、だれるばかりに噺を運んでいて、やがて終末へ近付くや、にわかに蘇ったような明快さでトントントンと捲し立て、アッといううちに一席読み終るその呼吸。
 誰よりも小圓太は、この人の呼吸におしえられるところ少なくなかった。なるほど「土蔵を建て」るわけだ。つくづくそう讃嘆せずにはいられなかった。
 それにつけても昼となく夜となく、落語となく人情噺となく講釈となく、むやみやたらと聴いて廻って、さて得たことは、巧い人、元より聴くべし。
 しかし、いかなる拙い人にも必ず一ヶ所や二ヶ所は、何ともいえないいいところがある。
 シッカリとそれを掴もう。
 またそのひとつやふたつのいいところすらない空っ下手の人、これはまたこれで勉強になる。
 どう勉強になるのか※[#感嘆符疑問符、1−8−78]
 拙いな、ア、拙いな、また拙いなと眉をしかめて聴いていながら、その拙いところをよくようく心に銘記し、決して自分はその欠点に陥るまいと心がけることだった。
 こういう聴き方をしてゆく以上、まさに小圓太の勉強法は天下無敵、八方睨みだった。
 巧い人きたらばその長所を、吸血鬼のごとく吸い取ってしまう。
 然りしこうして拙劣この上なき奴きたらば、これは己が拙劣に陥らないための金科玉条にと身を入れて聴く。
 これではどっちへどう廻ってもドジの踏みようがなかった。
 小圓太の耳に入る噺の、講釈の、一木一草――ほんのかりそめのいと片々たる雑艸《ざっそう》までが立派に明日の糧《かて》となった。
 これあるかな。
 自分ながらうれしくて小圓太は、自分の出番以外は日を夜に継いで、いろいろさまざまの人たちの高座を聴いて歩いた。
「小圓太、お前は噺の淫乱だな」
 とうとう圓生師匠から、こう笑われてしまったほど、しんからしんじつ浮身をやつした。「芸」に瘠するの思いさえした。
「三遊亭さん。またしてもおせっかいをするようだがお前さんのところのあの小圓太、どうも近来大した腕の磨きようだぜ。どうだいひとつ、もう二つ目にしてやりねえな」
 見附のお濠っぷちへ真っ白に桜の咲くころ、わざわざ文楽は圓生の住居まで訪ねてきてこういってくれた。二つ目とは前座の次二つ目へ上がるからのいわれ。即ち前座の一級上へ栄達することだった。
「ありがとう、毎度。何しろ奴ァ昔下地があるんだから、いま二つ目にしたからって早かあなかろう。じゃお言葉通りそうしてやるかな」
 このごろの本人の心がけにも拠っていることもちろん論をまたないが、それにしてもいざ本筋の修業をさせてみると、きのうきょうこの社会へ入ってきた他の前座とはてんで[#「てんで」に傍点]芸というものの肚へ入れようが本場所|角力《すもう》と田舎角力くらいちがっていた。子供のときから遊び半分でも何年か高座を勤めていたこともまた今にして、ようやくもの[#「もの」に傍点]をいいだしてきたのだった。
 三月末――めでたく小圓太は二つ目に昇進した。同時に湯島の父親のところへかえることを許された。
 でも、そのとき生来のんき者の風来坊たる父圓太郎はフラリ旅廻りにでかけていったまま、もう二ヶ月以上も音信不通となっていた。一番相好を崩して喜んでくれるだろう父親のいなかったことが何としても小圓太にとってはさびしかったが、それにしても指折り数えれば五ヶ月――僅か五ヶ月にして二つ目になれたとおもえば、大いに大いに喜ばないわけにはゆかなかった。
 でも、二つ目になってからの修業の、今までとはまた全く柄行《がらゆき》を異にして、めっきり辛く苦しくなってきたことを何としようぞ。

 にわかに圓生は一種特別の稽古を始めだした。稽古といっても口写しの噺の稽古のほかのおよそ厳しい仮借のない稽古振りなのだった。
 まずそのひとつ――。
「エー一席申し上げます。エー手前のところはエーその何でございまして、エー」
 こんな風にその時分の小圓太には話の合間に「エー、エー」という言葉癖があったのだが、それがひどく耳障りだとてある日圓生はいくつかの碁石を片手いっぱいに掴んで座を構え、
「サ、始めてみろ噺を。エーエーをいうんじゃねえぞ」
 顎でしゃくった。
「ヘイ」
 肯いて首の座へ直ったが開口一番、
「エー申し上げます」
 すぐその「エー」をいってしまった。
 ア……しまったと首をちぢめたとたん、
「エイ」
 早くも裂帛《
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